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「尋ねるな、意思を示せ」

私の小学校の時の卒業文集は、「思い出の運動会」などというテーマではなく、6年間でお世話になった担任の先生らの論評をしただけという簡素なものであった。

それだけに担任の先生のことはよく覚えている。
2年生の時には金子という教師が産休に入ることになり、浅川という臨時の教師が赴任したことがあった。
私にとって金子は剣道が強いらしいということ以外なんの印象にも残らない教師の1人だったが、浅川という教師は男子児童を中心に不思議と人望があったひとだった。

今でも覚えていることがある。浅川先生は授業中なんかに「トイレに行っていいですか」と聞くと決まって「ダメです」と答える先生だった。
大学生であれば面倒くさい教師なのだろうが、小学生の我々は「授業中はトイレに行きたくても行けないのか、失禁・脱糞不可避である」などと絶望に打ちひしがれていた。

しかしそのとき、浅川先生はこんなことを言った。

トイレに行きたいと思ったなら「トイレに行ってきます」と言いなさい。
自分が心からやりたいと思うことなのに、人に「ダメです」と言われたら皆さんはやめてしまうんですか。

なるほどと合点がいった私たちはそれから「トイレに行ってきます」とデカい声で言うようになった。(小学生なのでやりたいことがそもそもやるべきではないことであるケースもなくはないわけだが)原則として意思を持つ姿勢を示した意味は大きい。
もっとも、女の子なんかはきっとそういう意思表示をすること自体が恥ずかしかったりして、言葉にしていない子もいたのだろうなと思うが、それはまた別の話である。

今振り返ってみれば、浅川先生の教えとは「尋ねるな、意思を示せ」ということに他ならないのだろうと思う。
トイレに行くというのは日常的な行為ではあるものの、「人に行っていいかどうかの決定権を委ねるな。自らの意思を示してトイレに行け」という話なのである。
これがもし自分の夢なら、もし自分の仕事選びだったら、もし人生の大切な選択なら、人に「これでいいですか?」と尋ねてどうするのだろう。

ダメだと言われたら夢を諦めるのか。
ダメだと言われたら仕事を変えるのか。
ダメだと言われたら、選択しないで逃げるのか。

どれもその答えはNOであるはずだ。

トイレに行くのは誰にも止められないように、人に「ダメだ」と言われてもすでに自分の中でまだ結論が出ているのが夢や進路といった人生の選択ではあるまいか。背中を押してくれる誰かはいても、決めて行動するのは自分なのである。

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