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昔と今

 かつては筋トレに励む人間を救いようのないナルシストと嘲笑い、筋力があればあるほど知性にはそれだけ劣ると本気で考えていた。そんな僕もここ五年くらいは筋トレを続けているし、二年ほど前からランニングも始めた。身体と精神とが密接に関わり合っているという事実を少しづつ理解してきたのだ。将棋や囲碁の棋士が対局後には体重が減っていたり、作家が執筆のために習慣的に運動するというような話はよく耳にしてきたが、その本質を自分の体験を通して学ぶのには時間が掛かった。
 昔は理解できなかったが今なら少しは分かるという物事は他にもある。例えば、海外でレコーディングするミュージシャンに対し「どこでやっても同じだろ」と以前は思っていた。環境というものを軽視していたのである。どんな環境においても同じパフォーマンスをするのがプロだという論理は確かに正しくはあるのだけど、それでも結果には傾向というものが生じる。あらゆるスポーツのチームの勝率がホームとアウェイで異なるのと同じだ。プロなら常に一定の基準を超えるパフォーマンスをしているはずだが、それでも環境が結果に影響を及ぼすことは勿論あるだろう。馴染みのスタジオでレコーディングすれば本来の実力をいつも通り発揮できるかもしれないし、海外のスタジオで通訳を介さないと意思疎通もできないエンジニアと仕事をすれば全く新しい視点を得られるかもしれない。なんにせよ、どこでやっても同じなんて論理は乱暴過ぎる。

 昔も今もよく分からないことがいくつかある。なぜ多くの人間が大学生になるとスノーボードを始め、社会人になるとゴルフを始めるのか。「話」という漢字の名詞形と動詞形を混同して送り仮名を間違えるような人間が、どうしてネット記事のライターには多いのか。日本語で数字を3、2、1とカウントダウンする際に、なぜ0だけ「ゼロ」と英語になるのか。いつからかスポーツ実況において「チーム」を「ティーム」と言う解説者がチラホラ見受けられるようになったが、どうしてそこだけネイティブっぽい発音をするのか。海外においてニッケルバックとニコラス・ケイジは、なぜあそこまで徹底的にネタ扱いされているのか。
 昔は出来ていたのに今ではもう不可能なこともいくつかある。例えば、子供の頃は友達をもう少し簡単に作れていた気がする。それから色々な物事に対してもっと夢中になれた。他にも沢山例を挙げられそうなのだけど、悲しくなるので止めておく。

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