見出し画像

指導力・伝達能力の低い人間ほど、自分ではなく相手の理解力や器量を疑う

 「小泉構文」というネットスラングがある。政治家の小泉進次郎の喋り方を揶揄するジョークで、一文で同じ意味の言葉や言わずもがなのことを二回繰り返したり、「原因と結果」ではなく「結果と結果」という構成で作られた文を皮肉ったものだ。YouTubeで幾つか動画を見てみたところ、たしかにちょっと笑ってしまうような小芝居じみたものを感じた。政治家は習慣的にスピーチをするので舞台俳優のようなやや大振りな喋り方が染み付いているものだが、それが用意された台詞や台本ではなく、その場で考えながら喋っている文章の粗雑さとマッチしていなかった。
 しかしその一方で、彼の喋り方からは英語話者に特有の文章構成の癖みたいなものも感じた。英語ではまず簡潔に結論や立ち位置を明示する場合が多く、シンプルな表現が求められる。日本語はこれの全く逆だ。単に言語としてみれば関係代名詞がないので主語と述語が離れるし、それに加えて「空気を読む」とか「忖度」という文化のせいで全てが曖昧になる傾向がある。僕が受けた印象では、小泉進次郎はたまに英語的に日本語で文章を作ろうとして失敗している。バイリンガルではなく後天的に学習して新しい言語を獲得した人間は、言語を使い分ける際に思考体系の切り替えに苦労する場合が多い。僕は大人になってから英語を勉強し直して海外移住した経験があるので、芝居がかった立ち振る舞いや政治的理念とは全く関係なく、小泉進次郎を簡単には笑い飛ばせない。特に支持するほど彼のことを知りもしないのだけれど。

 日本人が挨拶的によく使う「お願いします」は英語に直訳できない。文脈にもよるが"Nice to meet you"とか"Please"あるいは"Leave it to you"なんて表現するのは可能だが、どうしてもニュアンスはそれぞれ変わってくる。
 日本においてはこのように曖昧な表現を汲み取る能力が要求される。例えば仕事上で上司から「じゃあ後はお願いね」と漠然と言い残された際に「何をですか?」「どういう意味ですか?」と明確にするためにいちいち訊ねようものなら「それくらい分かれよ」という態度を取られるだろう。皆まで言わずとも察して欲しいわけだ。
 能動的に動かない人間を批判する際に「言われたことしかやらない」という言い回しがよく使われるが、多くの日本人はそれがかなり傲慢な物の見方だと気づかない。言われたこと以上の仕事をする人間がより高評価されるのは当然だが、少なくとも言われたことをやっている人間を批判はできないはずだ。そのような思い上がりに無自覚な指導力・伝達能力の低い人間ほど、自分ではなく相手の理解力や器量を疑うものである。

 十代の頃からこのような物の見方をしていたので、僕は自分が鈍いのかもしれないとよく疑ったものだ。「どうしてこれくらいのことがすぐに分からないのだろう」「自分は空気が読めないのだろうか」と。しかし今では、自分の思考体系がどちらかと言えば英語寄りであるからだと認識している。おそらくこれまでに触れてきた洋画や翻訳小説、そして洋楽なんかの影響である。それが分からなかった昔は、友達や先輩なんかに「全然謝らないよね」とか「可愛げがない」なんて言われると酷く傷付いて内省したものだ。
 僕ももう大人なのでそれなりに空気は読めるはずだ。ただ根本的な性格は変わっていないので、空気を読んだ上でそれをあえて無視することはよくある。もしかしたら空気を読めない奴よりも悪質なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?