3年経てば

何気なくWordを開いたら、3年前の春に初めていつの日から消えた、価値観をひたすら書き綴るチャレンジの文章が出てきました。
「初めに」という題のものを開けば、これは黒歴史だ、と堂々と書かれてました。
いくつかあったのですが、どの文もこれは今の私には書けない、感じ得ないもの、思いつけないものばかりで、続きを書こうと思っても、当時の感覚は戻ってきません。
せっかくなので、すこし校正しながら。(がっつり個人情報入ってたのでね…)
中学4年生のわたくしの考えを聞いていただければと思います。

努力の天才、という言葉がある。
天性の才能だけに依らず努力によって向上し続ける天才のことらしい。自分はこれまで努力をしてこなかったように思う。多分、神様は天賦の才を与えてそれっきり、努力の才は与えてくれなかったのだ。
でも、努力の才は天賦の才なんだろうか、とふと考えた。
目標を立てて、それに向かって努力し続けることができる人はまあ間違いなく努力の天才だろう。自分にはできない。速読が得意なのは、小さい頃好きで本を読んでいたからであって、努力では無い。 
勉強や仕事には、興味なんかない。もちろん興味があるのが一番いいけれど、ない時に必要なのが努力の才なのかもしれない。
嫌いなものを、我慢して続けられる人。
どちらかといえば本人の気持ちの問題な気もする。神様は自分たちの性格まで作ってくれない。性格は変えれる。まあ、変え方も気持ちの問題だけれど。
ここまで書くとどうもすべて気持ちの問題な気がしてきた。ありがたいことに環境は整っているし、地球のどこかでは3秒に一人の人がなくなって、通学の自転車でありの命を何度殺したか分からないが、自分は生きていて、多少事故にあっても当たりどころが悪くなければ生きていられる。そういう環境に発達している。それを活用しないというのももったいない。
だからといってはいそうですかとやる気が出るか?前提として、努力しなければならない事象は嫌いな事だ。頑張らないといけない。正直面倒。
思えば受験の時は分かる問題はパスして応用ばかりやっていたように思う。逆に難しい問題はすぐに答えを見たがった。できない問題はやりたくない。ばつをつけたくないから。試験もあんまり受けたくない。失敗したくないから。
そもそも今までの人生を一言で表すなら「逃げ」だ。希望も夢も志望もなかった。今現在だって復習から逃げている。多分、これからも、部屋の掃除から逃げ、迫り来る現実から逃げ続けるだろう。
現実と向き合うのは基本的に辛い。自分の友達は、よく自分に引っ付いてくる。「離れたら不登校になる」とも言われる。友達という言葉に隠された依存である。その上で、「友達だよね?」と聞いてくるのはなんだかずるい気がする。そりゃ友達だとは思っているが、言葉の重みが違っている。
芯をもって、自分を客観的に見れる。これが出来て初めて現実と向き合う、というのなら自分だって出来ていないし友達なんかもっと先だ。自分の過ちに気付けなければ現実と向き合うことをしれない。となると努力はもっと先である。現実に向き合って、知って、初めて努力ができる。それ以外の努力はきっと無駄になる。
いくつもの壁があるなかでそれを乗り越えるためのプロセスは結局自分の気持ちだし、やる気だ。何かの目標を立てることもきっと手助けになる。めんどくさい。非常にめんどくさい。でも多分きっとそれが人生のつらいところで、楽しみだ。
どれだけ夢見ようとなろう系小説の主人公なんかなれやしないし、補正がつくわけでもない。努力の天才はそれを理解して先に進んでいった人のことなんだと思う。この文章のように物語的に書くなら、題材になるなら、ちょっとくらい辛いことがあった方が起承転結的には都合がいい。1度きりの人生とはよくいうものだ。どうせなら後に伝記に書かれるくらい活躍してしまえばいい。どうせならつらいことを沢山体験して頑張ればいい。ただ頑張りすぎには気をつけよう、と思うわけである。

2021/10 努力の天才 より

パソコンを起動しないと。そう思ったのはいつぶりか。前にも起動しようと思って忘れて、またしばらく期間が空いてしまったように思う。それでもいいかと自分を認めたのが昨日だ。
他人に求めるものは高いハードルのものなのに、自分のハードルが低い、というのは求められる他人が可哀想だと思った。要するに他人に厳しく自分に甘い人だ。でも、人間はいつでも楽をしたいと思うものだし、自分は得したいと思うはずだ。まあだからこそ、他人に厳しくなる人と自分が損をしたと思う人とが生まれる訳だが。
 我慢。必要な時としなくていい時とで大きく精神状況が違うが、自分は基本的に我慢を我慢と思わない人なんだと思う。つらいことをつらいことだと思わないし、思春期に入るより先に人生の価値観を作り始め、父の推薦図書で育ったいたって健康な優良児である。人より価値観の形成が早いのか、反抗期はないし、家族仲はいいし、よく友達の相談相手になった。
 話を戻して。例えば家事。母によれば皿洗いはつらいらしい。友達も鼻歌も許されない状況の皿洗いは虚無だと言っていた。自分はそう思わない。洗い物は洗い物でそれでしかないんだから特に辛い要素がない気がする。冬は冷たいかもしれない、でも「我慢」すればいいことだ。皿洗いなんてその程度でしかない。家事を楽しいと思う人と楽しくないと思う人両方がいるだろうが、自分はおそらくどちらでもない。自分は掃除ができないし、洗濯もまともに一人で洗濯機を回したこともないが、時間があればできると思う。それこそ練習や試行錯誤が必要だし、まだ自分は人生経験が浅いからまだできなくても仕方がないと思いたい。
<中略>
自分の「人に尽くす」ことは我慢ではなくて自己満である。学校に行くときにあれがあったら便利だなーあれがあったら役に立つかもなーと思って持って行ってるだけだから自分本位なものである。結局使わなくとも、次回もし同じような授業だった時に学習して持ってかないだけであるからのんきなものである。全くもって我慢ではないしつらいとも思っていない。
褒められることになれてないのもあるかもしれない。前までは可愛いやらなんやら言われてもそんなことないよーだったが、いまはありがと〜と返している。さすがとか言われても心持ち的にはいやいや、と思っているが、一瞬嬉しくなるものだから褒め言葉というのはすごいと思う。
自分がやっていることがそんなに感謝されるほど凄いことなのか、客観的に見れたらどれほど楽か。自分で見て自分は可愛くても所詮鏡の中でしかなくて客観的ではないだろう。毎朝見る見慣れた顔など人によって観点も違うし自分しか気にしてないことだってあると思う。そういう面では、昨日前髪を切って、今日切ったことに気づいた1人のクラスメイトはすごいなと思う。観察眼だろうか。せいぜい切ったのは1、2センチである。

2021/11 未完 無題 より

終電に揺られるってこんな感じなのかな、と。ふと想像した。
時刻は16時50分過ぎ。とても本来の終電とは違う時間だが、学生の、ましてやほとんど活動ない部活の人からしたら十分に遅い。季節も季節だ。この時間にはもう真っ暗である。昼頃から酷く降る雨もまさにそんな感じだし、曇る電車の窓が来る寒さを感じさせた。こういう暗闇を見るとどうもくらいことを考えるもので。
輝かしい学生生活を送っている訳でもない。自分の嫌いなところなど山ほどある。テストは受けたくないしうるさすぎる教室も好きじゃない。それでも生きているのはきっと死ぬ理由がないからである。
思春期真っ只中の同級生のなか、自分一人が浮いているのは早い頃にそれを体験してしまったからだと思う。父の本を勧められた順に読んで色々学んで、最終的には自らアドラー心理学を読んだ。そっち方面の興味はあったのだろうと。そんなもんだからAB型っぽいと言われたのだろうと。
思えば今まで恋愛をしてない気がする。そりゃ小さい頃はあったかもしれないが記憶にないのが現状である。何か一つのものに全力を注いだことも無い気がする。10年習っているピアノも、同年代で自分以上に上手い人がいることを知った。自分の努力がいままで足りてないんだと思った。
青春。随分明るい言葉である。そこにその当人の努力やらなんやらが影響しているかと言われるとそうでも無いのに、その言葉だけは輝かしい。自分の腹の中には常に損得が渦巻いて、自分を出すことを保身のためにしない。猫を被った自分が、まるで青春を謳歌しているのなら、それもまた夢か。
夢。自分に無いものである。目標も無いまま人生の先輩が築いてきたレールに乗っかって風に押されている。どうしても、自分は現実的に考えてしまう。良さそうなものがあっても、自分のレベル、キャリア、給料、住まい、、、考えることは山積みである。昔の自分に貼られたレッテルが、今の自分の選択を縛り付けている気がしてならない。
期待。自意識過剰かもしれないがそれなり期待されていると思う。最年少で成績は優秀だった。ここ最近は言い争うことも増えた気がする。自分は雰囲気を保とうと切り替えていけるが、それをよしとしない者もまあいる。
ちょうど帰る人を留めるように雨が降っている。暖房の入った電車は少し揺れながら見慣れた街並みを過去にしていく。数える程しか乗っていない電車は何となく死へ向かう人生を指しているような気がした。
死ぬこと。人間にとって当たり前にいずれ来る。死ぬまでに科学技術がとんでもない進歩をしたら分からないけれど。死ぬことが怖いか、なんて問はよく聞く。志賀直哉の『城の崎にて』を読んだことがある。死ぬこと自体にあまり抵抗はないけれど、そこに苦しみや痛みが伴うのが嫌いだ。

2021/11 未完 ふと思い立った より

こう見ると最初はエッセイぽかったのが段々自分を俯瞰した物語チックになってきてて面白い、かも。
変わらない考え方もあれば、変わった考え方もあるし、新たに形成された価値観もあります。なんだか成長を感じますね…
3年という月日は今振り返ると短かったように思いますが、こう一つ一つの葛藤を見ると、すごく長く感じていたんだな、とも思います。
まだまだ若いのに懐古厨なんてしてらんねぇなぁ!??(鼓舞)
ということで、何か助けになれば幸いです。ではでは。

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