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反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #3

04.日本初のビール醸造所開設

ビール醸造所設置の背景

なぜ、当時、日本でビール醸造所の建設が急がれたのでしょうか?

それは、開拓使が北海道開発のためにアメリカ式農法を導入し、それによって作られた大量の大麦を上手に活用する必要があったからです。

それと時を同じくして、北海道の地質調査を行っていたお雇い外国人トーマス・アンチセル(1817~1893)が”野生のホップ”を岩内で発見(1871年/明治4年8月)し、1872年(明治5)7月に”道内に野生のホップの存在を報告(ケプロンは報告を無視)し、北海道はホップ栽培の適地であり国内でのビール醸造用また輸出用として、その栽培を進言しました。

トーマス・アンチセル  開拓使お雇い化学技師。ケプロンの部下の1人。ケプロンとは、しばしば意見があわず対立する。現在の岩内町で野生のホップを発見。札幌にビール製造のきっかけを作ったのは彼といってよい。

最初のホップ園は、アメリカ、ドイツから苗を輸入、虻田通り(現:北二条~北四条の西四丁目)に設けられています。北海道開発局が入っている第一合同庁舎ビルの当たりです。

1879年(明治12)頃のホップ園      明治12年には、ホップ園地を拡張。第1号~4号ホップ園と呼んだ。総面積は1万4000坪。ホップの数は、6600株に達した。

ビール醸造に必要な材料が北海道で採れる上、ドイツ仕込みのビール醸造職人(マイスター)の中川清兵衛が帰国するとあって黒田清隆は、もろ手をあげて大喜びしたといいます。

こうして開拓使は、1875年(明治8)ビール醸造所の建設にゴーサインを出したのです。

ビール醸造所建設地は「東京官園」

当初、ビール醸造所の建設予定地は、札幌ではなく、東京赤坂南町の「東京官園」1号地に建設することで決定していました。ここでは、1871年(明治4)からビール大麦の試験栽培が行われていました。

東京官園1号地

その理由は、当時、東京新名所の一つとなっていた「東京官園」(農業試験場)で珍しい輸入植物や農作物を植え、高価な農業機械などの最新技術を一般公開し、北海道における開拓使事業を天皇や政府中枢に宣伝し国家予算を多く回してもらうための”政治的アピール”は、もちろん、「将来、北海道で栽培する輸入農作物は、東京で試験栽培して”成功したのち”、北海道へ移植する」という開拓使顧問のケプロンの提言もあったのです。

1875年(明治8)8月、中川は、開拓使御用掛雇の役人となります。その際の給料は50円。学校教員の初任給の10倍でした。破格の金額だったのです。

そんな開拓使の期待に応えるべく、中村は、ビール醸造所の設計から機械の手配、原材料の注文などを次々に立案します。

それを村橋が手配に奔走するという二人三脚でビール醸造所建設の準備が進められていきます。

ビール醸造に足りないもの。。。

材料のほとんどは、東京で入手することができましたが、ただ一点、どうしても東京で入手しにくい輸入にも頼れないものがありました。

それは、ビール造りに不可欠な「大量の氷」でした。

中川が学んだドイツでは、麦汁を摂氏10度以下に冷やして発酵させる「低温発酵」が用いられていてドイツ式の醸造法でビールを造るには、冷たく冷やす必要があったのです。

中川は、村橋に「蒸し暑い東京では醸造は難しい」と言います。村橋も「氷と寒い気候の土地こそがビールを造る鍵なのだ」と理解します。

英国留学と札幌の開拓使本庁勤めを経験していた村橋は、北海道の気候が英国・ドイツなど世界的ビール生産国によく似ていることを知っていたのです。

ビール醸造所建設地の変更

村橋は、中川から様々な話を聞き、決断します。

”とにかく、氷がないことには、ビール醸造の成功は見通しが立たない。

開拓使や国の決定がどうであろうと、この事業を成功させるためには、醸造所は、東京に試験的に建設するのではなく、最初から北海道に作るべきだ。

なによりも北海道の殖産産業は、北海道で行ってこそ、実効があがり、開墾も進み、移住者も増える”

村橋は、建設地を北海道に変更する【醸造所建設の変更、札幌への変更稟議】を開拓使上層部に提出します。

しかし、上層部の反応は、鈍く、かといって稟議書が差し戻されることもありませんでした。

一度決定したことを変えることの難しさもありましたが、村橋の稟議書は、受理され、東京建設は、北海道の札幌建設に変更されたのです。

第一官園は、1881年(明治14)に廃止されます。

『北海道開拓使 東京官園1号地』のその後
東京官園1号地があった場所は、江戸時代には伊予国西條藩松平家の上屋敷がありました。明治になり1871年(明治4)北海道開拓使の「東京官園1号地」となります。当初、ここにビール醸造所を建設予定でしたが北海道に変更となり空いた敷地に目をつけたのが合併を目指して新校地を探していた2つのキリスト教系学校でした。1つは、横浜の「美會神学校」と東京築地の「東京英学校」で、1883年(明治16)「東京英和学校」の敷地となり、1894年(明治27)校名を「青山学院」と改称します。そして現在の青山学院大学のキャンパスとなります。

東京官園1号地と2号地

この頃の札幌の人口は、周辺を合わせても3500人前後でした。

開拓使の本庁があるとはいえ、市場やインフラなどの基本施設もない荒涼とした原野のようなところへビール醸造所という近代産業を興そうという村橋の熱意が黒田清隆ら上層部の心を動かしたものと推察されます。

この開拓使の決定を覆したことが、その後のビール産業の方向を大きく変え、今日の札幌発展の礎を築いたことは間違えありません。

この時、村橋は、ビール醸造所のほか、葡萄酒醸造所(北3条東4丁目/明治9年9月開業)、製糸所(明治8年7月開業)の三か所の同時建設も指令されていました。

葡萄酒醸造所  日本最初の「ビール」醸造は、札幌ではなく横浜、大阪、甲府に次ぐ。しかし、「葡萄酒」と呼ばれていたワイン、ブランデー、ウイスキーについては、札幌が日本で最初に製造されたらしい。

この他にも缶詰製造所、牧羊場、桑園、仮博物場なども担当していたようです。
建設地は、いずれも札幌で村橋に全てが任されていたのです。

1876年(明治9)5月、村橋は、ビール醸造人(中川清兵衛)、桑事教師、葡萄酒醸造人、樽桶工、器機取り付け工、鶏卵孵化、鮭孵化取扱など30人を超える関係者を引き連れて札幌へやって来ます。


次回は、札幌に開設されたビール醸造所と村橋と中村が志半ばでビール醸造から去る直前までをご紹介します。




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