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宗教を超えた「人間学」へ~主体性を軸にしたライフストレスケアの可能性~

ストレスに関する科学的対処では、世界観、人間観、死生観、といった価値体系を扱わずに、実証的に「効果」があるとされる知識や技法を活用するスタンスになる。

しかし、ストレスがその人の生き方の歪みやアンバランスで起きると考え、ライフストレスケアという人間学へと発展させようとする立場ではそれは許されない。

どう生きれなよいかという人間の根源的な問いに答えようとするときに、価値の裏打ちの浅さは弱点になるだろう。

既存の宗教に頼るのではなく、それを包含しつつも科学知識と矛盾しないように、厚みのある価値体系をそなえた人間学を創ることは出来ないのだろうか。

今回の記事はそれを目指したスケッチのような試論である。

世界観と人間観

✔ 私たちが体験している世界はそれぞれが人間として生きるために探索し見出した世界であって、その元となった背後の実在は「不可知」であり認識することは出来ない。

✔ 背後の実在は共通であっても、他の生き物は他の世界を見出して生きている。同じ時代を生きる人間同士は似通った世界を見出している。知識や言葉の伝播によって見出す世界は変わっていく。

✔ 世界とは「自分を含む環境」のことで、世界から自分を切り話すことはできない。

✔ どう生きればよいかという世界の在り方と、どう生きるかという人間の在り方は相似形である。

✔ 探索して見出した人間や世界の在り方に、生存に向けての法則性、秩序があるということは、背後の実在には、不可知とはいえ、生物を生かそうとする高度な知恵や愛があるはずだ。

✔ 生命の階層における「個体」と「自然界」、生活の階層における「個人」と「社会」、人生の階層における「個性」と「価値」という3つの「人間と世界」の現れ方がある。

✔ 3つの「人間と世界」の現れは体験の中で混じり合い統合されている。

✔ この「人間と世界」を不可知の実在から引き出して出現させているのは3つの階層における様々な「主体性」の働きの相互作用である。

✔ 主体性を失うとき、その人にとっての人間(個体・個人・個性)も、その人にっての世界(自然界・社会・価値)も力をなくして消えていく。

✔ 生と死の関係性は、肉体生命(個体)に限って考えるべきではない。
主体性は生きる力の輝きそのものであって、それが低下したり失われる可能性で裏打ちされている。
だからこそ、日々のLIFE(生命・生活・人生)を輝かせていかねばならない。

✔ 生命の階層の主体性 呼吸、筋肉、感覚、睡眠(覚醒)、食事、運動、言葉、行為、資源。

✔ 生活の階層の主体性 関心、観察、理解、自信、自主、意味、信頼、貢献、希望。

✔ 人生の階層の主体性 決心、自省、受容、信念、誠意、感謝、敬愛、世話、安心。

✔ 主体性は身体・行動・精神を分離せずに体験としてとらえている。さらに「自分を含む環境」を一体として考えている。残念ながら適切な用語がないので誤解させるかもしれないが、ここで主張している考え方は「心」のことではない。

✔ 苦悩が増してストレスが増大するときには主体性の制御がうまくいっていない。生命の輝きと停滞の間にあって、ゆらぎながら主体性を磨いていくことは不可知の実在との対話でもある。

✔ 人生の目的はLIFE(生命・生活・人生)の創造であり、自然と個体、社会と個人、価値と個性をバランスよく整えていくことだ。

✔ 結果として不可知の実在の一部が主体性の働きを通して体験として現れている。

✔ 人間としての生を終えたとき、私たちが帰るべき故郷は不可知の実在の世界である。

以上、現状での考え方を残しておく。

正直、この話で救われる人はいないかもしれない。
人間は幼児期の父母のような存在を生涯求め続け、それが宗教になっているようにも思う。

ただ、知的な理論や神話的な物語ではなく、日々の主体性の実践という「体験」に世界観、人間観、死生観を込めてはどうだろうかと考えている。


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