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人生の意味に追われないこと~ライフストレスケアの視点から

現代人のストレスの一つは自分の人生が無意味であるという虚無への恐れではないのか。
それを埋めるために「充実した生活」を求めて試行錯誤をしているようだが、成功や自己実現も本当の願いではなくて、ひょっとしたら虚無を避けるための代替の願いかもしれない。

このような新しい問いが生まれたのは、共同体の中で「共に生きる」という人間の在り方が崩れて、表面的にしか知らない相手と役割を果たすためだけに協調する生活のせいだと思う。

本来の「共に生きる仲間との交流」は、役割としての交流に矮小化されてしまった。

そこで取り残された「感情の交流」を求めて、自分を理解してほしいと願うが、人間の認識の力を超えた巨大な社会の中で、まるで繭の中に閉ざされたように個人の意識は分断されて分かり合うことは難しくなった。

社会の歯車のような役割としての交流だけで、人生の意味を味わうことは難しいだろう。

そして、個体としてみれば人間は生まれて、病んで、老いて、そして死すべき存在である。
共同体の中で世代を超えて「共に生きる」ことで、従来は直面してこなかった個体としての生きる意味が迫ってきている。

ここにおいて、宗教も哲学も、ましてや科学が意味ある人生を教えてくれるだろうか。

そして人生の意味を追い続けることに疲れた人が、意味などなくても良いと気づくこともある。

自分が意味を見出すという視点から、まるごと、生命、生活、人生に包まれている自分に気付くのだろう。

私はこの議論で抜け落ちているのは、主体性の欠如だと思う。

どこかで私たちは客観性という呪縛に陥っていて、意味があるかどうかも本当は主観に過ぎないのに、周囲と比較したり、周囲から認められるような「意味」を求めてしまっているようだ。

だからこの問題の本質は、自分の人生の意味を外から意味づけること、他者の目を通して意味づけること、他者との比較で意味づけることの弊害に気付くことだと思う。

自分で感じ、考えて、行動を選んで、その結果を背負うと言う主体性の道を歩くとき、そこには誰とも比べようのない日々が生まれていく、この人生のプロセスにこそ意味がある。

虚無が生じるのは「それが結局何になるのだ」という社会に波及するような結果だとか、未来に得られる結果を問うためだ。
すると他者と共に生きていない個人としての人間は死すべき存在として意味を見失う。

生まれて、そして死すまでの、その間をどう歩くか、その自由度、選択にこそ、意味があるのであって、自分なりの姿勢や表情で胸をはって歩けばよい。

どんな歩き方をするか、それ自体に意味がある。

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