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#22 自分を救うのは自分だが、アウトプットの場を頂くのがケア。

自分は、ケアを受けたり自助グループに参加したり、SNSで自らの救われない負の感情を
隠さず現す、そういう行為が必要な人間だ。

そんな中で、間違いもある、
誰かにとって快くない事がある、
それは自分にとってマイナスな事もある、
そうとは言い切れないプラスもある、
等など、色々ある。

自助グループで得た事には、
しっくりくるものが幾つもあった。
最もいまの信条となったのは、
「自分の欠点は、自分にも見えるくらい、
   他人にもハッキリ見える方がいい。」
ということ。
1番欠点を見ないでいられるのは、
自分だから。
「欠点がひと様に見えたら最後だ、大損だ。」
そういう思いが大きいと、人生は発展しない、
つまりそれこそプラスじゃないどころか、
マイナスだ。自分はその感覚が腑に落ち、
いまの信条となっている。

これを聞いてしっくりこない人は、
「隠したい程の欠点が、自分にあると
   感じるような人生」ではないのだと思う。
そんな思いが膨らみ続けるような
人生ではなかった、それは平和なこと。
「誰しも酷い欠点はあるのに、
 それを見ずに済んでるのよ」
 って意味では、全く無いです。

人生が死にたくなるほど苦しいとか、
既にメンタルが病んで服用も必要とか、
そういう人は、自分も含め、
ノビノビと自分の欠点を表現しながら、
欠点と表裏一体の長所を発見してゆく、それが、
ケアであり、豊かな人生のコースだと、
そんなふうに考えている。
(ケアを受けた体験の結果として。)

SNSならば、そんな経験や考えの外側の人が、
圧倒的に多い。だから、プラスになる事は
確かに少ないけど、結果的にマイナスにも
ならないように思う。
明るい人も離れるが、変な奴にも
離れてもらえる。
ありのままの自分でいれば。

問題は、ケアの方。(自助グループを含む。)
誰かは必ず
「ケアを受ける人が、治癒されるように」
「救われるように」「幸せになれるように」
と思い、そちらに動かそうとする。
それが、ありのままの来談者いられなくしたり、
来談者を傷つける行為になるとは、
考えられない支援者が当然いる。
いや、当事者にならないと、当然むつかしい。

たとえば、辛い内容をカウンセリングで話す時、
「辛い話ですね」という表情をしている事、
それを演じてでも必要だと思ってる支援者は、
実際多い。
でも、ケアを受けた自分が傷ついたのは、
言葉よりも表情だった。
辛い話をわざわざしにきているのは、
辛い経験で終わらせないために、
「まずアウトプットをして、好転させる行動を
見つけるため」でしかなかった。

自助グループでは、その日私が話した事について、「頭だけで考えすぎに見えるよ」
と言った人がいた。
辛い体験や苦しい感情を、
頭で整理してるのは、どう考えても当たり前。
「行動しながら考えられる」ほど、
調子が良くなる前の行為が、
自助グループで話す事だと思う。

支援者やグループの仲間を、
嫌だとか嫌いだと思う手前で
「ん??しっくり来なさすぎ。違和感。良い気がしない。」というとき、
結局その方が、自分の欠点を見ようとして
いない時が大半だった。

いつも自分の欠点に気づこう、
そこから長所に転換して、豊かな人生を
ゆっくり構築しよう。
そんなループにこそ、ケアが成り立つと、
今のところ私は信じている。

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