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雨の日には冷えたスプーンを


―秘密のある夜更かしは、結構楽しい―

※お立ち寄り時間…5分

 「昔、嫌いな食べ物ってなんだった?」

ほんの少し、関係を進めたい時、この質問をする。
ピーマン、トマト、椎茸、グリンピース、コーヒー等、多種多様な回答がある。歳を重ねるにつれて、「嫌い」だった食べ物が「苦手」となり、「好んでは選ばない」まで落ち着き、「食べれる」まで昇格し、遂に「好き」に進化を遂げることもある。それは、段々と味覚も大人になっていくからかもしれないが、それ以外の理由もあると思う。

 昔、食べれなかったのは、「グリンピース」だ。
よく、コーヒーと聞いたりするが、兄弟がおらず、大人の世界で育ったためかコーヒーデビューは早かった。毎朝、淹れたてのコーヒーの香りで目が覚める。両親が、喜々としてマグカップに口を付ける。そんな光景を目にしていたら、そりゃあ、好奇心が湧く。ちなみに、中学2年生の時に砂糖とミルクは卒業した。

 ただし、同じ「苦み」でもやはり好き嫌いは生じる。
コーヒーの苦みは受け入れられても、麦酒の苦みはまだ「苦手」止まりである。それなのに、飲み会の一杯目は大方の場合、麦酒だから非常に困る。無理して頼むと、グラスの中の琥珀色がどんどん色を失って、温くなってしまって。高揚感よりも罪悪感が自ずと勝つ。

 社会人になって、会社で2回泣いたことがある。

一度目は、社会人2年目の時だ。前例のない仕事で、手伝って欲しいと伝えたが、直属の上司は考慮してくれなかった。精神的にもだいぶ参っていた。職場では、泣かないと決めていたのに、自然と涙が止まらなくなった。すると、上司は面倒くさそうに溜息をつき、こう言った。

「最上階のトイレなら誰も来ないから気持ちよく泣けるよ。」

社会の大方のことは、自分のペースだけでは上手くいかない。一日の大半は、我慢と忍耐の連続だ。自分の要求と周りからの要求を丁度良い距離感で対処していく。元々、人付き合いは嫌いな方ではなかったけれど、この頃から、人付き合いは「苦手」だなと思うようになった。

 二度目は、社会人4年目の時だ。係長級の仕事を任せられ、呼吸がままならない時だった。前の部署で、助けを求めても考慮してもらえなかった経験から、すべて自分で抱え込んでしまっていた。そんな様子を見かねた直属の上司から声をかけられた。

「抱え込まなくていいからね。辛い時は、ちゃんと言ってね。」

思ってもみなかった言葉に、我慢していた感情やら言葉やら解放やらが次々溢れてきて、涙が止まらなくなった。すると、上司はハンカチを差し出し、泣き止むまでずっとそばに居てくれた。そして、業務量の調整をしてくれたのである。

 同じ、「苦み」にも好き嫌いがあるように、人も食べ物の好き嫌いと似ているところがある。「嫌い」と「苦手」は全く違う。「苦手」はまだ好きになる可能性があるけれども、「嫌い」には、哀しいかなほぼ可能性はない。
 それと同時に、最近は、食べ物の好き嫌いが少ない人ほど、人の好き嫌いも少ないように感じる。食べ物の話をしてみて、「嫌いだったんだけど、食べれるようになった人」は、人間関係でも「嫌い」な人ともそこそこ上手く関係を築いているような気がする。逆に、「ずっと嫌いのまま」な人は、「嫌い」な人とは、一切関係を持たない。清々しいほどに。

 マズローの三大欲求が食欲、眠欲、性欲であるように、「食欲」は生命を維持するために必要な、人間として生きるために必要な、本能的な欲求である。だからこそ、いくら上手に取り繕っていたとしても、「嫌いな」食べ物に対しての考え方が、より素に近い部分なのではないかと思うのだ。

 ちなみに、社会人4年時の上司は、食べ物の好き嫌いが少ない。また、新商品でもとりあえず食べてみてから「美味しい」か「美味しくないか」を決めるらしい。今の部署は、厄介な電話も度々かかってくるけれども、どんな面倒くさい電話にも、果敢に適切に対処している。

 つまり、嫌いなものと上手に付き合える人は、好きになる努力を惜しまない人でもある。


そんなことを言いつつも、まだグリンピースが「嫌い」なまま、「苦手」にはなっていない。

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