雨の日には冷えたスプーンを一ソファに日曜日が残っている(峰不二子編)一
※お立ち寄り時間…5分
「母乳かミルク、どっちにする?」
「出るなら、母乳にしたいです」
とワクワクしながら答えた。
そう、峰不二子になれると聞いたからである。
たわわに揺れる胸
足元が見えなくなる胸
温泉に行くときの小ぶり(かなり)な胸をもう恥ずかしがることはないのだと、ちょっと嬉しかった。
しかしながら、この選択は、悲劇を生むこととなる。
あなたは、真夜中に自分の胸から母乳を泣きながら絞ったことがあるだろうか。
彼を出産し、入院の最終日だった。
悲劇が起こった。
最終日のお昼に、祝膳が出て、鯉の旨煮も付いていた。私が住んでいる地域では、鯉をお祝い事の際に食べる習慣がある。
なんの躊躇いもなく、もきゅもきゅと祝膳を平らげてゆく。
ふと、妊娠中に言われた母の言葉を思い出した。
「鯉の旨煮は、気をつけなさいね。胸がばんばんに張るから」
まあ、大丈夫だろうと思いつつも、母の言葉が頭の片隅にひっそりとこびりついて離れない。
10秒迷った末に、半分だけ頂戴することにした。
悲劇の開幕は、お昼を食べた直後からだった。
最初は、気のせいかと思った。
右胸の上あたりがチクチクと痛み出した。
まさか、と思いつつも、微睡む視界の中、彼のお世話を続ける。
その数時間後、右胸に熱がこもりはじめ、左胸の周囲がズキズキと音を鳴らしはじめた。
気のせいではなかった。
およそ数時間で、両胸が推定2カップほど大きくなりはじめたのである。
峰不二子、華麗に襲来である。
腕が上がらない。
彼を抱き上げるたびに、胸にナイフを突きつけられるような鋭い痛みが走る。
いよいよ、胸の異変を伝えると、「こりゃいかん」と言わんばかりに、助産師さんがこう呟いた。
「痛いかもしれないけど、初乳だけちょっと頑張ってみようね」
胸が張った場合は、絶対に温めてはいけない。
まずは、アイスノンや保冷剤で患部を冷やして、痛みが和らぐのを待つ。そして、地道に指で搾り出すのだ。
助産師さんから、右胸、左胸を揉まれるたびに、手に力が入る。爪が手のひらに食い込んで、血が出そうなくらい。
痛い。
それしか言葉が出てこない。
妊娠中、峰不二子になれると、うきうきしていた自分が恨めしい。
もう、岩なのだ。胸ではない。
岩が入っていたのだ。
胸の周りをぐるりと囲むように。
結局、泣きながら搾乳を夜中まで続け、一滴一滴、小さなカップに溜めていった。
半日かけて、やっと、10mlを搾乳した。
彼が飲んでくれた時は、嬉しいを通り越して、正直ホッとした。胸の痛みから解放されたのは、約1週間後で、寝返りを打てた時は、涙が出るほどに嬉しかった。
出産は、命懸けというが、妊娠中も産後も命をひたひたと削る。命を削って、命を産み出し、あらゆる人の手を借りながら守り抜いてゆく。
幾千年も前から、命をひたひた削って、命を産み出してきたのだと思うと、そのほんの一粒を経験できたことに、何だか感慨深く涙が出るのだ。
母乳にする選択をしたことも、唯一無二の経験であり、本当に、何なら陣痛よりも痛かったけれど、全く悔いはない。
ちなみに、痛みに耐えきれなかったので、母乳は諦めた。この選択も後悔はない。
無論、言うまでもないが、ミルクを選択後は、峰不二子は、颯爽と去っていった。
今は、小ぶりな胸のおかげなのか、彼は気持ちよさそうにふにゃふにゃと眠りにつく。
柔らかな昼下がり、日曜日のソファとともに。
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