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国破れて山河あり

 
 本を読んで勉強するとは、どういうことなのか?
 先賢の知識を、自らの糧とすること……

 そんなことは、小学生でも答えられるだろう。

 確かに、知識は日常に於いては有効な手段に違いない。
 これから、仕事で、あるいは結婚で……人生に意味を見いだそうとする人間には有効な武器となることも、ぼくは認める。

 しかし、人生など所詮糞ったれの余分な時間と考えるある種の人間にとっては、知識とはクイズ番組で満点を取るような、益体も無い虚栄心に過ぎない。

 脳細胞の渾沌に、あり得ないはずの小道、横道、獣道を見いだすヨスガこそが……つまり、煙草やアルコールにも似た刺激こそ知識の本質なのだとぼくは思う。

 何年にどんな政権が誕生したとか……どうでもよい。
 継体天皇の出自に知ったかぶりをしたところで、日常の戯れ言にすぎないのだ。

 かって、ぼくらの先輩がかく宣ったことがあった。「書を捨て、街に出よう」……と。

 「書」は日常の規則……「街」とは脳細胞の荒野とぼくは解釈する。

 詩人杜甫はかく歌った。「国破れて山河あり」……と。

 「国」とは既存のシステムであり、「知」と言い換えてもいいだろ。「山河」とは、破壊から生き残った、……まさに脳細胞の荒野なのだ! 

 阿呆な政権が本来アナログであるべき人間に対し、デジタル庁なるお笑い草を行政の庭に開店している。

 分度器で測らなければ、坂道をチャリで登れないような国民に改造したいらしい。
 そう。デジタル人間の管理こそ、今の下等科学でも簡単な方法なのだ。
 デジタル人間の優等生たるエリート官僚の……らしい思考だろう.

 高尚な哲学書を読んで、女の子にもてるよりも、ぼくは公園のベンチで愚痴をかます、名も無き人たちの会話にこそ耳を傾けたい。
 そこには、人を誘導しようという作為はない。

 知性を気取った新聞や雑誌や書物の犬どもとは違う、アナログ右脳人間の、素直な表明だと信じたい。

 国など、いつ破れても一向に構わない。焼け野原に書物が散らばり、煙を上げていたとしても、一向に構わない。権力者が、いかに焚書坑儒に励もうとも、焼け野原をそれ以上焼き払うことはできないだろう……

 いかに無惨な戦場だとしても……やがては大地は芽吹き、新しい命が生まれるものなのだ。
 
 ぼくは「神」などは根っから信じてはいないが、大自然の匠としてのデミウルゴスの神なら、妥協的でも信じたい、……

 

貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。