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【短編小説】アガパンサス(改訂版)

 

 中学生になった初めての夏休みのこと。未だ友達も出来ず、遠野信吉はクーラーをつけっ放しにした二階の自室に閉じこもった。小学生の頃から両親は共働きで、どうやら一人家に取り残されている時間の多い子供を「鍵っこ」というらしい


 だからといって別に退屈はしない。父上の書架にはかなりの蔵書があって、江戸川乱歩なんかの探偵小説を読んでいれば満足だったのだ。クラスの連中はゲームに夢中らしいのだが、信吉はこのゲームというわざくれを好まない。そう。ゲームには所詮、その背後にクリエーターという神が君臨しているわけで、言ってみればプレーヤーはその掌で遊ばされている孫悟空みたいなものだろう。

 その日も、信吉はお気に入りの乱歩の、もう三回は読んでいる「鏡地獄」を読了し、さてどうしよう……と、ベッドに寝転がってみた。
 そう。暇を持て余しているいるのだから、今のうちに夏休みの宿題を済ませておくのも一興だろう。勉強にはそれなりの自信があるので、一気呵成にカタもつく。読書感想文も、夏目漱石あたりならすぐにも書ける。厄介なのは日記だ。毎日コツコツと、終わってしまったその日の出来事を綴る……考えただけでもゾッとする。

 しかし、待てよ……。

 信吉は、ベッドを飛び降りると、机のパソコンの前に腰掛ける。
 そうだ! 「明日の日記」を書いてやろう。
 さっそく、翌日の日付を打ち込むと、

 今日、午後三時頃僕はチャリで近くのR公園まで走った帰り、ふと奇妙な風体の人物に目が止まった。なにせ、真夏だというのに、真冬みたいにコートを羽織り、襟巻きを巻き、おまけに毛糸の手袋まで装着しているのだ。なんとも怪しい。ニット帽を深く被りマスクまで掛けているので人相は定かではないが、たぶん三十歳前後だろう。僕は、とっさにその男の後をつけることに決めた……

 信吉はそこでキーボードから手を離した。

 一度綴ってしまうと、明日、本当に自分が同じ行動をするはずだという気分になってくる。途轍もないミステリーが、待ちかまえているような気分であった。

 翌日、信吉は日記に書いたとおり午後三時にチャリに跨がり、R公園まで走った。
樹木生い茂るかなり広い公園ながら、蝉の声を耳に信吉はチャリを押したまま一周してみたが、日記に書いたような男にはお目にかかれない。
 小さく舌打ちをし、自販機でお茶を買い、ついベンチに腰を落としてスマホを玩んでいると、

「何……あの人。見て……」

 つい横手に女性の声。見れば、二人連れの二十歳前後の男女。女の人が、遠慮がちに指を差す向こう……ああ、信吉は思わず声に出した。

 そう、日記に綴ったそのままの風体の男が、ショッピングバッグを片手に、公園の出口の方に歩いていくのだ。信吉は、思わずゴクリと唾を飲み、自転車を押したまま男の後についた。
 男は公園を出ると、通りに向かって右折する。信吉も、なんだか探偵にでもなった気分で同じく右折する……
 しかし、そこに男の姿はない……
 しばし右往左往、男の姿を探しているうちに、信吉は溜め息と共に得心した。

 「明日の日記」には、そこまでしか書いていないのだ。

 信吉は家に戻ると、すぐにもパソコンにかじりついた。居ても立ってもいられぬ気分なのだ。「明日の日記」に綴ったことが、そのまま現実になることが証明されたのだから……
 ならば、探偵ごっこなんかより、もっと心ときめく物語を書いてみたい……

 キーボードに置いた指が、ピリピリと震えているのが分かる。当然じゃないか! 今、信吉の頭のスクリーンには、同じクラスの吉川麗子ちゃんの顔が揺れているのだから……

 思えば、入学式の日に信吉は麗子ちゃんに出会ったのだ。

 ちょっと寂しそうな顔をしていて、すでに友達を作ってはしゃいでいる他の新入生から浮き上がっていたはず。それでも、まるで運命みたいに、二つの偶然が続けざまに……そう、一度目は彼女の落としたハンカチを拾ってあげたこと……小さな声でお礼を言われた嬉しさ。そして、その彼女と同じクラスであったこと。
 もちろん、その後、麗子ちゃんと言葉を交わす機会はなかった。三番目の奇跡を席順に期待したのだけれど、これは外れ。廊下側と、窓際という正反対であった。

 これって、絶対に「恋」なんだ! 生まれて初めての、不思議な感情に信吉は戦くと同時に、未だ何とも知れない世界への予告を感じて……

 その麗子ちゃんとの第二幕……魂が踊るような展開が、今自らの打つパソコンから生まれようとしているのだ!

 震える指で、まず明日の日付を入れる。

 今日、僕は三時頃、自転車に乗ってS公園まで走った。竹林を配した小さな公園ながら、自由に見学できる古民家もあって、ちょっと写真を撮ってみたかったのだ。
 自転車を降り、その方に歩を進めると、ちょうど古民家の手前のベンチに一人の女の子が座って文庫本に目を落としている。同じクラスの、吉川麗子じゃないか! 
 クラスメートなんだから、話しかけたっておかしくは無い。あたりには人もいないし、お喋りを楽しむにはうってつけだろう。
 僕は、ベンチの方に近づき、
「吉川さん……」
 麗子ちゃんは、ちょっとビックリしたみたいにピクンと顔を振り上げると、
「あっ……遠野君……」
「わー、偶然だね。家、この近くなの?」
「うん。すぐ先のE寺の裏の方……」

 信吉はそこまで綴って、キーボードから指を離す。
 やったぜ! これで、知り合うことができるんだ。
 ちょっと胸苦しくなるほど、心臓が踊っている。どんなストーリーにすべきか?
 アニメや漫画の……いくつものシーンが浮かんでくる。「好き」……と言ってしまおうか。いやいや、アニメのヒーローだって、初めはモジモジ照れて、そんなあからさまの台詞なんか口にしないだろう。
 そう。まずは一緒に古民家を見学して、ついでに写真を撮る……あくまでもついで……という感じで彼女を撮る。それがいい……

 信吉は再び、パソコンのキーを叩く……

 僕と麗子ちゃんは、まるで以前からの恋人同士みたいに並んで、古民家見学をしゃれこんだ。囲炉裏があったり、古めかしい箪笥や仏壇があったり、木彫りのちょっと気味の悪い仏像が安置されたりもして、それなりの見物(みもの)だったけど、僕はそんな古めかしい世界よりもずっと麗子ちゃんの横顔に見惚(みと)れていた。なんて可愛いんだろう!
 お喋(しゃべ)りの内容なんて、全然覚えてはいない……

 信吉はキーボードから指を引く。

 これ以上、何を綴れというのか。恋こそ、紛れも無いミステリーの世界じゃないか。ネタバレになるような文言は、いっそ蛇足というものだろう……

 翌日、信吉は日記どおりにS公園に向かってペダルを踏んだ。

 思った通り、麗子ちゃんはちゃんは予定されたベンチに腰かけていた。日記には書き忘れていたけど、白いワンピースに、素敵な麦わら帽子を被っている。
 「吉川さん……!」
 信吉は勇気を振り絞って声を掛ける……

 夢を紡いだみたいな、サイコーの夏休みが始まったのだ。

 僕と麗子ちゃんは、その日をきっかけに電話やメールで連絡を取り合い、何度もデートの真似事をし、宿題を教え合い、好きな音楽や小説の話で盛り上がったものだ。口数の少ない、ちょっと寂しそうな顔の麗子ちゃんながら、時として見せてくれる笑顔は、どんな名画よりも綺麗だった。

 もとより、信吉はとっくに「明日の日記」などには興味をなくしていた。そう、明日じゃない、「今日の日記」を書けばいいのだ……

 楽しかった夏休みも、終わってみれば一場の幻のようだ。

 夏休み明けの九月、信吉はちょっぴり大人になった自分が嬉しくて、キザを承知で、母上がベランダで育てていたアガパンサスを一輪手にして学校に向かった。彼岸花にも似た、「紫君子蘭」の別名をもつ優美な花。なんでも花言葉は、「恋文」とか「恋の訪れ」と母上も言っていたのだ。
 回りからかわれたって、知ったことでは無い。信吉としてもクラスメートの誰よりもひと足お先に、大人の世界に踏み込んだ気分であった。この花を二学期のスタートとして、麗子ちゃんにプレゼントするつもりであった。

 ちょっと時間が早すぎたのだろうか……いつもの窓際に麗子ちゃんの姿がない。

 じきに、久しぶりの学友達が次々に教室に入ってくる。一学期とは違って、いとも簡単に仲間に入っていける。人見知りだった今までの自分が信じられないくらいに……。そう、口数の少ない麗子ちゃん相手の会話をきっかけに、自分がちょっと成長した実感が感じられるのだ。

 じきに、一時間目の授業を知らせるチャイムが鳴り響く。どうしたんだろうか。麗子ちゃんはまだ教室に現れない。寝坊でもしたのだろうか……

 先生が入って来る頃になって、信吉は不意に気が付いた。そう。窓際の麗子ちゃんの席に、別の女の子が座っているのだ! しかも出欠を取る時……そこに吉川麗子の名前がなかったのだ…… 

 不安が、胸腔(きょうこう)に膨れ上がる。一時間目が終わり、信吉はいたたまれぬ思いで回りのクラスメートに問いかけてみた。
「今日、吉川麗子さんはお休みなの?」
 返ってきた答えは、
「誰? それ……」
 
           ※

 それから一週間が過ぎた。あの夏の日々は幻影だったのだろうか?

 どんなに調べても、H中学に「吉川麗子」という女子は在籍していないのだ。 
 もとより、何度も電話を入れたが誰も出ない。メールに返事も来ない。夏休みにたくさん撮ったはずの写真も、すっぽりと麗子ちゃんの姿だけ消えうせて、白々しい背景しか写っていないのだ。

 麗子ちゃんの顔が姿が、なんだか川面(かわも)に浮かべた笹舟みたいに、どんどんと遠ざかってゆく……

 夏もすっかり背中を見せ始めたある日、信吉は「明日の日記」を再び綴ることにした。

 日曜日、午後三時、僕は久しぶりにS公園に向けてペダルを踏んだ。絶対に、麗子ちゃんが待っている気がするからだ。祈るような気持ちで、僕は竹林を先に進む。そして、古民家近くのベンチに、……思ったとおりだ、麗子ちゃんはちゃんと座っている……

 そこまで、打ち終えて、信吉はキーボードから指を遠ざけた。どうしたんだろうか、涙が溢れて、液晶まで滲んで見える……
 麗子ちゃんは、絶対に待っていてくれる……絶対に……

 明くる日、「明日の日記」に記したとおり、信吉は午後三時にS公園に向けて自転車を走らせた。願いを込めて、祈りを込めて、竹林を進み……その先のベンチに……

 でも、そこに麗子ちゃんの姿はなく、代わりに品のいい白髪の老婦人がぽつねんと腰かけているばかり。もしかしたら、席が塞がっているので、別のベンチに座っているのだろうか?
 信吉は辺りに目を走らせながら、ついスマホの麗子ちゃんの名前をタップする。
しばしの後、老婦人の手元に着信音が鳴り響き、
「はい、吉川ですけど……」
 老婦人の声が、信吉の耳に通る。
「あっ、麗子ちゃん!」
 思わずの呼びかけに、老婦人の顔が信吉を見上げる。
「あの……もしかしたらあなたかしら? このところお電話くだすったの……スマホの操作が苦手で、なかなか出られなくて……」
「……たぶん」
「麗子をご存知で?」
「……中学のクラスメート、の、……はずなんですけど……」
「間違ってたら、ごめんなさい。遠野さんじゃないこと?」
「はい、遠野……遠野信吉です。H中の一年……」
「でしたら……」
 老婆が膝に置いていたバッグから取り出したものを見れば、
「あっ!」
 そう。それは、母上が千代紙で作ってくれたブックカバーの掛かった文庫本に違いない。中学に入学する前の春休み、所も同じベンチで読んでいた本であった。うっかりと、ベンチに置きわすれてしまったのだ。大好きな江戸川乱歩の、一番気に入っていた「押絵と旅する男」という短編を収載した文庫本であった。
「実は……麗子が、ここで見つけたんですよ」
「麗子さんが?」
「はい、私の孫なんですけど……あなたが置き忘れていたのに気付いていながら、恥ずかしくて声を掛けられなかったようでして……」
 やはり、運命だったのだろうか。あの春休みの日、麗子ちゃんもこの同じ公園に来ていたらしいのだ。そして、信吉が本を置き忘れたのを目撃して……
「麗子ときたら、この文庫本を抱えて、ものすごく照れてました。カバーにあなたの名前が書いてあったでしょ。それに、電話番号まで……」
「はい。けっこうドジなもんで、しょっちゅう置き忘れるんです……だから……」
「もう勝手に同い年だって決めつけて、これをあなたに返すんだって言ってたのに、恥ずかしがって電話出来なかったみたいですけど。ただ、この本だけは繰り返し読んでましたよ……特に『押絵と旅する男』が気に入ったって……」
「その麗子さんは?」
「……亡くなりました」
「……!」
「中学の入学式の朝に。あの子ったら新しい制服を着込んでいそいそ、遠野さんに会えると信じてたみたいでしたよ、同じ中学になるかも分からないのに……」
「……」
「……玄関を出てすぐの交通事故でした。ブレーキとアクセルを踏み間違えた車が突っ込んできて……。物音に驚いて飛び出した時、あの子は制服姿で、この文庫本をしっかり抱きかかえて倒れていました……」
「……ウソ、ですよね?」
「私だって、ウソであって欲しい……私の、たった一つの生き甲斐だったのに……」

 なんでも麗子ちゃんは、ずっと小さい頃にご両親を亡くし、日舞の先生をしているという祖母に育てられたという。小学校の時は、そんな理由もあっていじめられっ子だったらしく、一人本ばかり読んでいたとのこと……
 話が一区切りつき、しばしの沈黙の後、
「このケータイ、麗子のなんですよ。それにしても、どうして麗子の電話番号が分かったんですか?」
「そう言えば……」
 思えば、信吉は自分の番号を教え、直後掛かってきたのを登録したはず。それとも逆だったのだろうか? 思い出そうとしても、それがいつのことなのか、今となっては判然としないのだ。もしかしたら、文庫本を置き忘れた、あの日に……
「……とりあえず、この本を麗子に代わってお返しします。ここで待っていれば、あなたにお会い出来るような気がして。少し血のシミがついてて、申し訳ないですが……」
 
 自室に戻り、信吉は返却してもらった文庫本を開いてみた。心なしか、麗子ちゃんの匂いがする。
 遠ざかっていたはずの思い出の笹舟が、恋の川を遡行してぐんぐんと近づいてくる……

 その日の夜、信吉は改めて「明日の日記」を綴ることにした。

  絶対に、……絶対に、運命の掌で玩ばれてなんかやるものか!
 そうさ。運命のクリエーターになってやるんだ!

 今日、学校に行くと、担任の先生が、転校生を紹介してくれた。ちょっと寂しそうな顔の、女の子だ。なんだか、ずっとずっと昔から、僕とは運命の糸で結ばれているんじゃないかと、その時、僕はハッキリと感じた。小さな声での自己紹介で、本が好きだという。僕とも、同じ趣味じゃないか! 
 本人も先生にして、ちょっとうっかりだったみたいだ。名前の紹介が最後になってしまったのだ。
「ええと、言いわすれてましたけど、彼女の名前は……」
 黒板に、彼女の名前がデカデカと殴り書きされる……

 吉川麗子……と……

 明けて、信吉はいささか時季外れと思いつつ、ベランダで最後の花を結んだアガパンサスを手に、家を出た。
              了

                             

           

 
  
 
 

 
 

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