惰眠を貪る
世間的に言えば、大いに非難されかねないが……僕は、惰眠ほ貪ることが大好きだ。
休みの日など、つい習慣で早めに目が覚めても、一度トイレに立ち……再び床に伏した時の快楽は何物にも変え難い。あと三十分、あと一時間……再びウトウト……気づけば昼近いというのも珍しくはない。
もしも、妻や子供等の家族がいるならば、こんな自由は許されないだろう。
パパ、起きて! 小さな子供がいたなら、無理矢理に手を引っ張られるかも知れない。
妻からは家の片づけを命じられ、子供からは遊びに行くことを強要されるだろう。
つくづく、独り身を感謝したくもなる。
しかし、惰眠を貪った代償は大きい。やりたいと思っていたことの幾つかは諦めざるを得ないし、一端目覚めてしまえば、自らの意思の弱さに愕然とするのも事実である。
こんな時に限って、時間はあっというまに過ぎ、気づけば既に夕刻……なんのタメの休みだったのかと、溜め息をつくことになる。
にも係らず、僕は惰眠を愛する。
特に、二度寝直後には、面白い夢が見られるのだ。
夢とは、確かに……あたかも経験しているかのような幻かも知れない。
しかし、僕は「経験しているかのよう……」ではなく、明らかに「経験している」と認識している。
ゲーム等の没入でも、一時は日常から開放されているように感じるだろうが……夢と決定的に違うのは……出来合いの仕組みというリードに繋がれているという、厳然たる事実だろう。
これに反し、夢は自前のイメージなのだ。どんなに非現実的ではあっても、断じて借物ではない、唯一無二の己の脳細胞の創作なのだ。
夢は、確かに果無い。しかし、車窓の景色のように次々と移り変わる日常にして、 倏忽として現実味を失い……果無いと言うなら、夢とどこが違うのだろうか?
子供時代の経験を思い出してみるならば……明らかに現実であったと、すべてを断言できるだろうか?
少なくとも、僕にはできない。
夢想と現実が綾織りをなし……記憶の彼方にあって、それはすでに「夢」に他ならない。
今日も、妻や子供に邪魔されることもなく……僕は惰眠ほ貪ってしまった。
夢裡にあって、僕はパウル・クレーが創作したという曇の絨毯を手に、街を彷徨っていた。金を払わず、古道具やら盗んでしまったらしい。心細さと不安でやり切れなかったのだが……これも、僕にとっては掛け替えのない「経験」なのだ。