見出し画像

【恋愛小説】 紫水晶(アメシスト) 1話、2話

    紫水晶(アメシスト) あらすじ

 玩具メーカーに勤める至(いたる)青年は、何事にも自信の持てぬ人間であったが、女子事務員りん子に思いを寄せることで、積極的に生きることに目覚める。デジタル全盛である時代に逆らい、アナログ的思考を以て社内で頭角を現す。
 一方、デジタルの急先鋒でもある専務の大神は、幼少期の忘れ得ぬ少女の面影を、古風のふぜいを宿すりん子に投影、無理心中を計る。至青年は、鏡の中に別人格を作り上げて平穏を保とうとするが、すでに彼の歩みは死の世界へと向かっていた。夢のような地下街を彷徨いながらも、やがて、子供時代に死の象徴と思い定めた瞳の中の「死のベンチ」で、至青年を待つりん子に再会する……    
 
 
    

    紫水晶(アメシスト)
                           
       ※
 目覚まし時計のベルが鳴り始める。六畳ほどの、こざっぱりと片付いた洋室。空っぽの屑籠。机の上、無造作に放り出されたアナログの腕時計。真新しいリングケース。
 通勤用のスーツの下がる壁には、蕗谷虹児の叙情画のすり込まれたカレンダーが懸かっていて、可憐な娘が薄闇を見詰めている。八月六日の日付が赤インクで囲まれ、それ以降は剃刀で裂いたような鋭利な線条で末梢されてある。
 カーテンの隙間から、明度の高い朝の光が差し込んでいる。             
 ……ベルが止む。

       1
 いけねぇ、すっかり寝過ごした。 
 出勤の準備慌ただしく、ついネクタイの結び方を忘れて狼狽えたが、なに、家を飛び出し、いったん電車に飛び乗ってしまえば腹を括るしかない。後は、何年もの習慣が自動的に会社のデスクまで連行してくれるだろう。
 幸いラッシュアワーのピークは疾(と)うに過ぎていて、吹き出す汗も霊安室さながらの冷房に一気に引いた。
 電車が発車する寸前、ふと車窓に己れの顔が幽霊のように浮かび出る。やれやれ、存在感希薄な間延びのした面。どことなく、奴(やつ)に似ている気がしたはいかなるこころの作用だろう……

 奴……というのは、同僚の井口至(いたる)のことだ。勤務先の『ファンタジー商事』は古参の中堅玩具メーカーながら、近年の家庭用ゲーム機市場の隆盛に乗って路線転換著しく、特に数年前若手社長に代わって以来優れた企画ならどしどし採用とあって、能力次第で出世のチャンスはかなりある。
 そうはいっても、奴は俺なんぞと違ってめっぽう気が弱く、企画会議ではさながら萎れた観葉植物。そもそも、まともな遊び方すら知らない朴念仁の、唯一の特技として懐古的唱歌をハーモニカで吹くことくらいしか芸はない。

 それにしても、ラッシュアワーを過ぎた車中というのは、どうしてこうも老いぼれが多いのだろう。いろっぽいのでもいれば、少しは視覚的犯罪という暇つぶしもできように。かといって、時間にコウルサい窓際課長への言い訳を考えるほど殊勝でもない。あいにく週刊誌も新聞も手元にはないが、たまたま奴から預かっている手記がここにある。アホなスマホゲームなんぞよりは、いっそこいつを拾い読みしてみるほうがましかも知れない。

 実を言うと、俺と奴とは幼馴染みという間柄ながら、長年意識したことも親しく言葉を交わす機会とてなかったものだか、つい二箇月ほど前、とある事件をきっかけに急速に親密の間柄になったしだいである。手記を託されたのもそのせいだ。
 とにかく、奴の話はいつでもりん子との出会いから始まる。奴いわく、こころのビデオを巻き戻すように……

         2                                      
 ぼくはこどもの頃から、本当に自信のない男だった。たぶん虚弱体質のせいで、ごく幼い時分から死を意識し過ぎていたせいかも知れない。そのせいか、ぼくの自尊心はおのずと純粋培養の温室の中、いかなる傷も恐れる、臆病な宿借りみたいになってしまったらしい。
 だからこそ、ぼくはそんなひ弱な素顔をひた隠すために、いろんな仮面を時に応じて掛け替えてきた。ある時は卑屈な道化師の仮面であり、又ある時は排他的な老人の仮面。そして、実社会に出るにあたってぼくが最終的に被った仮面は、人畜無害の「のっぺらぼう」ってやつ。

でも、りん子との出会いがそんなぼくを変えた。

 りん子……というのは同じ社の事務員である。りん子に出会った……というよりも、この地上にりん子の存在を初めて知ったのは一年前の五月三十日、社内食堂でのこと。窓辺の隅っこで、ナポリタンなんぞを品よく食べているりん子を見たのが初めてだった。丸顔の、ずいぶんと小柄なおんなの子で、教会のマリア様のように色が白く、いわゆるいろっぽいとか派手な顔立ちというのではなかったけれども、足元からひきずり込まれるような圧倒的なオーラを、その時ぼくははっきりと感じたのだ。 
 
 彼女はいつでも、下界を見下ろす決まった席で食事をしていた。連れはせいぜい同僚の女子事務員といったところだ。
 ぼくは毎日毎日、彼女を見詰め続けた。もちろん、十分に距離をおいて。当然、視線が合ったわけでもなく……まあ、仮に合いそうになっても、ぼくは意識的に目を伏せてしまっただろう。
 そうさ。ぼくは夢見る少年のように、ただひたすら彼女を見詰め続けたのだ。繊細さをもった緻密な濃い眉、「へ」の字を逆さまにしたような唇の線がなんとも魅力的なのだ。しかも、彼女の場合、笑顔がたとえようもなく素晴らしい。一度ぼんやりと見惚れてしまい、箸で摘んだ豚カツを味噌汁の中に落としてしまったくらいである。莟が柔らかくほころぶような……とにかく、紡いだ綿菓子みたいに、ぼくのこころにそっと絡みついてくる笑顔なのだ。

 二箇月、三箇月と彼女を見詰め続けるうちに、ぼくは間違いなく恋に落ちてしまったのだ。彼女の顔を、何気ない仕草を思い浮べるだけで、胸の中が締めつけられる。何としてでも彼女に近づきたい。が……ぼくなんかが好かれるとはどうしたって思えない。
 その上、初めの印象を裏切るように、彼女が光を受けたガラス細工さながらに目立って輝き出すのだ。菫の花のように目立たなく、固い莟のように未熟でいて欲しいというぼくの願いを裏切るように……

 週が改まったとたん、少しばかりヘアスタイルが変わった。もちろん広いおでこをシッカリと見せた長い黒髪に変わりはないのだけれど、ちょっとウエーブが強くなったみたいだ。彼女のこころを波だたせる、恋風でも吹いたのだろうか。しかも、いつもセミタイトのスカートだった彼女が、後ろにスリットの入ったやけに煽情的なタイトスカートをはいて来るのだ。ハイヒールの踵もめっきり高くなって、階段を少したどたどしく上ってゆく彼女の後ろ姿にドキリとする艶めきを覚えたこともあった。

 そのせいか、食堂での連れに男性が混じってくる。どいつもこいつも長身のイケメンで、ぼくの何倍もスゴイやつに見えるのだ。彼女が楽しそうに雑談をしている。少しおどけて首を傾げたり、おっとりと笑いかけたりもする。てっきり、デートの約束。時には、食堂の指定席に姿を見せない日もある。ああ、へたをすれば明日にでも彼女が、見知らぬ大男に奪われてしまうかもしれない。胃がキリキリと痛む。目眩がする。呼吸が苦しくなる。もう、堪らないのだ。

 ……で、ぼくは決心をした。額に指で一本の線を引いてみた。ぼくは、戦士になろうと思った。

  続く→

        3話、4話
        5話、6話
        7話、8話
        9話、10話
        11話、12話
        13話、14話
        15話、16話
        17話、18話
        19話、20話
        21話、22話
        23話、24話
        25話(最終章

        

この記事が参加している募集

忘れられない恋物語

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。