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【恋愛小説】 紫水晶(アメシスト) 5章・6章

       

      5


 俺は奴からこの話を聞かされた時、正直言って腹を抱えて笑い転げてしまった。どこぞ深窓のご令嬢でもあるまいに、気楽に「ハーイ」と声を掛ければ済むものを。
 どだいおんなという生き物は、いつだって男に声を掛けられるのを待っているものだ。笑顔で応えてくれたらラッキー……そっぽを向かれても、男たるもの、いくらでも捨て台詞のバリエーションは用意しているはずだ。
 しかし、考えてみれば、博物館の隅から掘り出してきたような奴のこのシャイな純情さ、さだめてある種のおんなには通じるのかも知れない。……と思いながらも、奴の言葉を借りるならば「決行日」とやらの、ほとんど手術を前にした重病人さながらの面つきを想像してみれば、吹き出すなと言う方が無理な話だ。

       6
 もうじき冬なんだなと、ぼくは思う。冬ならば思いっきり寒い冬がいい。しかし、冬の真っ只中に春が訪れないとも限るまい。いや、少なくとも賭に出た人間、もはや勝ち負けを考えてはいけないはずだ。ぼくの初めての……ふうっと、最後の賭のような気にもなってくる。

 チャンスは思いの外早くやってきた。十一月半ばのことだ。ぼくに無意識の計算があったのだろうか。それとも、賭に出た人間には、おのずと一つのチャンスが与えられるのだろうか。もしそうなら、運命ってやつもなかなか味なものだ。
 仕事が少しばかり遅くなった日。エレベーターに乗ろうとしたとたん生憎と扉が閉まってしまい、仕方なく階段をとぼとぼ降り始めた時だ。
 ああ、偶然にも途中でバッタリと彼女に出くわしたのだ。心臓が釣り上げられた魚のように躍る。淡いピンクのブラウスに黒のベスト、それにトレンチ風のベージュのコートをはおった彼女。なんとも言えない清潔感といったものを、彼女はごく自然に持っている。ぼくが常々思い描いているムードにぴったりなのだ。こころの内側をトロリと溶かしてしまうような、悲しくなるほど眩しい白無垢のような、そして、一緒に唱歌を歌いたくなるような……
 絶妙の距離を保ちつつ彼女に歩を合わせゆっくりと階段を降りていたにも拘らず、悪い癖の夢見る少年になってしまったせいか、気がつくとすでに一階。なんてことだ。人もいないし、せっかくのチャンスだったのに。ぼくの期待がげんなり萎み始める。空気に溺れるって、このことかな? フロアには何人もの人影がチラホラしていて、ぼくの頓馬な行動を笑いを堪えながら見物しているみたいだ。
 ちょっと捨て鉢な気分のままいったん出口の方に踏み出してみれば、元来早足のタチ、さっさと彼女を追い越し、つい先に外に出てしまう。
 打ちつけ、激しい後悔の雷に打たれ、ほとんど無意識の裡に歩を止めた。後から来た彼女がさり気なくぼくの左側を通り過ぎる。かそけき春の予感。少しぬくもりを秘めた甘い香りをほのかに覚えた次の瞬間だ。
「あの、すみません……ちょっと……」
 思わず声が出た。今だ! 見兼ねた運命の女神に背中を押されたのだろう。
「えっ、わたし?」
 間髪を入れずに彼女が振り返る。ツンツンと、小鳥の胸のにこ毛を引っ張ったような澄んだ無邪気な声だ。えい、当たって砕けろ!
「実は……あの、あなたに、つまり、その、お話したいことが……」
「お話って?」
 彼女が、なんだか困ったような表情で視線を落とす。たぶん、ぼく自身、葬儀場の受付みたいに陰気な顔でもしていたのかも知れない。ぼくはいつだって、こころの裡と表情とがちぐはぐなのだ。場違いの式場に迷い込んだみたいな、バツの悪い間……
 彼女は唇をキリリと引き締めると、上目遣いの非難のまなこで一瞥するや、歩を進めようとする。
「あの、どこか喫茶店で、少しの時間でも……」
 自分がいかにも間抜けに思える。風が冷たいのが唯一の救いだ。
「どんなことです?」
 シッカリとした彼女の声。
「その、たいしたことでは……」
 間延びのしたぼくの声。
 思わず、少し笑ってしまった。もとより笑顔を作るゆとりなぞあろうはずもなく、典型的な自嘲ってやつさ。しかし、結果的には大吉。なにせ、彼女の方もわずかに口元を綻ばせてくれたのだから……

 ともかく、喫茶店でテーブルを挟むことには成功した。ほっと一段落なのだが、ウェイトレスを早く追っ払いたくて、好みも聞かず勝手にコーヒーを二つ注文してしまう。
 それにしても、コーヒーがなかなか来ない。もしかしたら、ブラジルまで注文に行ってるんじゃないかな? その間、ぼくはといえば、意味もなくスマホを覗き込んだり、ポケットに手を入れて何かを探す振りをしたり、我ながら何をぐずぐずしてるんだと叱りたくなるような有様だ。
 彼女の方は目を伏せ、もぎたてのプラムみたいな固い表情で、ジッと黙している。
 それでも、氷水で喉を潤し、遠路アラビアのブラジルから運ばれてきたアフリカのモカのキリマンジャロをブラックのままふた口ほど啜ってみると、だいぶ気分も落ち着いてくる。いいぞ。この分なら、姑息な手に訴えずとも……
「あの、実は……」
 コーヒーカップの把手を指先で弄んでいた彼女が、待ち構えていたように顔を上げる。黒目勝ちの目が、一瞬大きく見開かれる。思った以上の凄さだ。出し抜けに突き付けられた鏡の前、素っ裸で座っているような気分だ。やはり、駄目だ……
 素直に観念すると、意を決してかねて用意の手紙を内ポケットから取り出した。見れば、だらしなくよれている。てっきり今のぼくのこころだ。指でなんとか伸してから彼女に差し出すと、
「なにかしら……?」
 用心深そうに言って、手を出そうともしないのに、
「読んで下さい!」
 もう、破れかぶれだ。彼女は訝しそうにためらいつつも、そっと手を伸ばして受け取ると、手紙を開き……

 目を閉じる初めの計画を変更し、ぼくは彼女の姿が隠れるほどに視線を落とすと、腕時計の秒針を追った。
 ……十五秒経過……誰かの圧し殺したような笑い声……三十秒経過……そろそろ返事が返ってくるだろう……四十五秒経過……喫茶店のBGMはショパンの『別れの曲』だ……なんだか、縁起が悪いな……一分経過……鼓動が駆け足を始める……一分十五秒経過……このまま、黙って店を出ようかな……一分三十秒経過……自殺するなら、飛び降り自殺がいいだろうか、それとも、首をくくって……一分四十五秒……カチっという金属的な音。
 上目に窺えば、彼女はバッグを開き、そのしなやかな指の延長のような細身の万年筆を取り出すと、ぼくの手紙を片手で隠し、何やら書き入れている。それから、イタズラっぽい笑みを口元に燻らせながらこちらに差し出すや、頭を深く落としてコーヒーカップの把手を再びコソコソと引っ掻き始める。
 手紙を見ると、(ぼくと、交際して下さい!)と綴ったそのすぐあとに、細い丹念な字で次のように書かれてあったのだ 
                                        
                 ◎します
     あなたと、お付き合い【
                 ×しません                 
                   
     わたしの名前 後藤りん子(二十四歳 独身)
     勤め先 『ファンタジー商事』秘書課 
     趣味 ハーモニカを聴くこと。  

 
 やったぜ! 思わず叫びたいところだったけれど、ここは男のたしなみってやつさ。グッと堪えて、ちょっと文学的微苦笑に頬を歪めただけ。それでも、ミルクピッチャーのミルクをコーヒーカップではなく、グラスの水に注いでしまったは愛敬だろう。彼女が、キュッと冴々しい三日月形に口尻を引き上げる。その分、ぼくの頭は朧月だ。何から話し出そうか口ごもっているぼくに、彼女がさり気なくきっかけを作ってくれた。
「あなたのハーモニカ、とってもお上手ね」
「えっ……!」
「あなた、よく屋上で吹いてるでしょ」
「ぼくが吹いてるの、知ってたの?」
「ええ。だって、あんなコトしてるの、あなただけよね」
「……おかしいかな」
「そんな……」
 彼女が指を丸めたまま手を小刻みに振る。むきになったような顔つきといい、こどもっぽい仕種だ。
「でも、あなたが吹いてるの、いつも唱歌ね。好きなの?」
「うん。君は……?」
「そうね。わたしはお部屋じゃ、中島みゆきさんとか手嶌葵さんの歌なんか聞いてるけど。あなた、この間、『夏は来ぬ』っていうの吹いてたでしょ。再認識しちゃったわよ」
「だけど、もうじき冬が来るっていうのに、変に聞こえたんじゃないかな」
「あっ、そうねえ」
 彼女がスウッと息を吸い込むようにしながら、顔全体を綻ばせる。口と一緒に目も、おまけに肩まで笑う。グラビアのモデルなんかには絶対作れない表情だ。
「他にも、なかなかいい曲があるんだ……」
 彼女が、心持ちからだを乗り出してきた。

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