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活字中毒

 


 以前ホテルでバイトをしていた時、同僚の一人にほとんど「活字中毒」と呼べるような奴がいた。


 とにかく仕事以外の時間にあっては本を手放さない。職場への行き帰り、食事中、トイレにまで本を持って入る。
 
 どんなジャンルが好きなのか訊いたところ、文字通り「活字」がそこにあるならば、小説であろうと、歴史書であろうと、街中でもらったパンフでも……なんでもござれという。
 はっきり言って、ちょっと怖かったこともある。
 休憩時間に話しかけても「ああ」とか「うん」とか以外の発語はなく、ひたすら活字を追っているのだ。
 完全に「中毒」というべきだろう。

 思えば、僕も一時まさしく「活字中毒」に陥った時期があったのだ。
信頼している家族の一人が体調を壊し、「死」がちらつき始めた頃のことだ。
 とにかくいつ体調が急変するかも知れず、一分一秒たり……思考を働かせることが恐ろしかったのだ。ふと思考を巡らしたとたん、最悪の事態ばかりが頭を締めつけ、全く寛げない。酒を飲んでも、不安は解消されるどころか、かえって増長してしまうのだ。頭は朦朧とするどころか、かえって冴え渡り……最悪の事態になった時の、様々な行動を知らず吟味してしまうのだ。
 いたたまれぬままに、僕は無意識のうちに手近の本を読みあさっていたわけである。
文芸誌、小説や歴史……哲学書、……時には料理本やカタログの類い、……とにかく何かを読んでいる時間だけは、苦痛から逃れられたのだろう。
 
 もちろん、読んでいる最中は内容も理解していたはずだし、……うっすらとした期待として、いずれ役に立つとも考えていたものである。

 しかし、全ては間違いであった。
 そう、中毒に陥った時の「活字」は、単なる「阿片」に他ならず、頭脳に於ては「益」になるどころか「害」しか及ぼさない。

 今思い出してみるに、読んだ書物の内容が覚束ないのみならず、何よりも本を読んだ……という、仮にそれが自己満足ではあっても……満足感が感じられない。
 まさしく「麻薬」そのままなのだ。
 もとより僕には麻薬等の経験は皆無ながら、想像するに、後年麻薬が何かプラスになったとは思う人はいないだろう。
 理由は判っている。麻薬の作用とは不安を誤魔化し、思考を停止させる……すなわち、限りなく「死」に近い状態……ということではないのか?

 なんの事は無い。不安から逃げるために、これを解決する以前に、薬に手を出すことで、自らを考えなくていい「死体」に仕立て上げていたのだ。

 断言しておこう。「活字中毒」としての読書は、何の益もない。思考が伴っていないのだから、まさしく「死体が本を読んでいる」ということである。

 ……それでも、ふと思い返してみると、「活字中毒」時代、いかに難解な哲学もスラスラと頭に入っていた記憶がある。勿論、集中力の賜物にはあらず、疑問とも批判とも無縁の……「読書機械」の、単なる「作業」であったからに違いない。

 元来、僕は特段の読書家とは言えない人間であった。「活字中毒」から抜け出した身としては、時には読書をサボってしまうことも多い。
 思い直してページを繰っても、疑問と批判のみならず、あらぬ思考の枝道が四方八方に広がって、遅々として進まず、本来の作品とは食い違った思い込みにウンザリすることもある。

 しかし、僕はそれでいいと思っている。多読はたぶん自慢にはならないだろう。
本を読むというのは、新しい知識や知見を得る以上に……自らの脳細胞の迷路に迷い込むことだと信じて疑わない。

 死体は、絶対に迷子にはならないだろう……

 

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