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ただ流るるままに

最近、「生きる」という行為に対して力みがとれてきた。
力が弱ったわけではなく、怠惰になったわけでもない。

力を入れなくても生きていける、自分は愛されているし生かされていると思えてきたからだ。

生きることに精一杯になっていたけれど、
別に力を入れないと生きていけないわけではない。
自分という存在は流れの中の一部分であって、流れに身を任せているだけでも目的地に辿り着くことはできる。

じゃあ何が力ませているのか?

「このままでは生きていけない」
という思い込みなんだと思う。

親という籠、挫折という鈍器、嫉妬のシャワー
過去の経験はいつだって僕らを傷つけてきた。
人は傷ついた分だけ強くなれるというけれど
そんな強さは本当に必要なのか?

人生で傷つかないことなんてない

むしろ傷付いてこそ人生で、たくさんの学びを僕らにくれる。
それらはギフトや神のご加護と呼ばれるものかもしれない。

傷ついて得られるものは「学び」であって
「強さ」じゃない。

強さというものは
その場に固執させてしまう。
可能性を狭めてしまう。
自分という人間を守る鎧になってしまう。

今の時代に求められているのはそんなものじゃない。

学びを通して
この状況にはこのように対応しよう
これはこの時と似ている可能性がある
この先はこんな未来が起きるかもしれない

もっと自由でシンプルなものだ。

そんな自分も人を幸せにしないといけないという重りを持っていた。
だがそんな「強くなくてはいけない理由」を下ろした。

だって生きている以上幸せになりたいのは当たり前だし
不幸でいたい人間なんていない。

今まで「人の幸せのために」と働いてて、
その気持ちを強く持ちすぎるあまりに「自分が自分が」
となっていた。
人の幸せ願ってるからか責任を背負いすぎていたなと。

そんな自分を幸せにするのって誰だっけ?
となったし、自分が幸せにできる人もできない人もいるよね
ともなった。

人は時と流れていくもの
流れに逆行するから、しんどくなる。失敗する。
流れに逆らって削られていく石のようなものだ。

けど本当は水のように流れに流されてさまざまなものが混ざって
そうして一つの海のようにシームレスなものになっていくと思っている。

別に他人と違わなくたっていいじゃん。
比較しなくたっていいじゃん。
自分を必要としてくれるとこに流れればいいじゃない。

自分の可能性を信じてくれる元でこそ人の価値は発揮される。
それは何かができるという条件付きの存在証明ではない。

自分にはできることとできないことがある。
けどそれは自分のあり方がダメな訳じゃない。
たまたまdoとhowが違っただけ。

手段が違うのであれば変えればいいし、手段を知らないのであれば勉強すればいい。

『Be』である自分が幸せにしていないわけではない。

限られた時間を有効に使うためにも
自分ができること、できそうなことに集中し、やりきっていこう。
できないことは人に任せちゃえ!
思いが一緒なら結果は一緒なんだから。

そして時の流れを読もう。

時代はいつだって、ひとつのところに向かっている。

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