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「作品」のための記号・サイン/高速道路の先のナルニア/蛇足の雑記(23/6/29)

 サムネ画像は最近描いた絵。カラっとして、ウエスタンで、好きな要素しかないかわいい絵になったので、お気に入り。せっかくだから全体も載せておこう。

おさげのせいで女性に見えるかもしれないが、男性のつもりで描きました。
おさげの男が好き。三つ編みはみんなするけど、お下げの男性ってあまり見ない。
なぜ?クールだと思うんだけど!

 今日も今日とて、いい感じの話を聞いて考えた事を書いてみたけど、これ当たり前の事じゃん。いつも書いてから何てことない事だと気づくよな。


「作品」のための舞台

・台座を考える

 卒展での展示を見据えた作品制作のため、作品を展示する際の「台座」について、他大学の先生の話を聞く機会があった。曰く、「台座は、作品が鑑賞対象である「作品」であると示しアピールする記号でもある」。確かにそうだ。作品だから台座に乗っているし、台座に乗っていると作品として見るようになる。
 先生は続けて言う。
「なんなら、その作品が「美術館に置いてある」こと自体、それが作品だと示していると言える。」
「そういうのを払拭して、作品鑑賞に至るまでの余計なものを排することを目指して、私は台座や展示場所を考えている。」

 聞きながら思い出したものがあった。先日調べたアート・ユーザー・カンファレンスについてだ。

 先日、あれそれ考えて(興奮気味に)書き殴った展示の感想文はこれだ。この記事では、青森県立美術館で行われた企画の一部で彼らが行ったプロジェクトについて採り上げた。
 アート・ユーザー・カンファレンスは、アーティストや美術研究者数人によって設立され、彼らと「ユーザーの声」によって運営される集団。らしい。彼らの自己紹介なんだろうか、言うなれば彼らに添えてあるキャプションのような文章を以下に引用する。

「アート・ユーザー・カンファレンスは、「芸術なしの芸術」、つまり既存の芸術という制度の外で生じる芸術を探求します。アーティスト、観客、批評家、キュレーター、コレクター、美術館などが各々の役を演じ分け、「芸術」という物語を支えています。物象化された作品、「創造性」という神話、「公共性」という幻想がその舞台装置を作り上げます。アート・ユーザーはそうした芸術の物語には参加しません。アート・ユーザーは芸術を「使用」します。使用は、物象化された作品を解体し、創造の神話をレディ・メイドの時間に墜落させ、公共性という幻想を消耗させることでしょう。使用の目的は芸術を使い切ることにあります。使い切ることは芸術を倹約しながら死に向かわせます。」

About │ General Museum 

 「美術館にあること自体が作品を「鑑賞対象」に仕立てている」という意見は、アート・ユーザー・カンファレンスが軸にしている感覚なのではないだろうか。あらゆる「美術作品」は、丁寧に御前立てされて鑑賞者の前に姿を現す。美術館は美術作品を美術作品とするための記号としての側面を持つ。
 台座の話をしていた先生は「そういう記号を排して、純粋に作品を伝えられるようにするために、私たちは台座を考えている」と思っているらしい。作家である以上、自身の作品を作品として「そのまま」伝えたいのだろう。

 参加していた学生からの「意図があって床に置いて展示したとき、他の教授から酷評された。先生方はどう考えますか」という質問を起点に、さらに議論は白熱した。

形骸化は誰かのためのサイン

 作家でなくとも作品を作る側の身としては、「記号化」は陳腐化と同じにも見える。作る側や美術に慣れ親しんだ人間であれば「美術館・ギャラリーに行き、何もない壁・白い台座と作品を見る」のは、形骸化している部分がある。展示方法の模索は、作家が作品を見てほしい形に見せるためのコントロール方法の模索でもあり、究極「アトリエや制作場所=作られた場にある状態が最良」かもしれないのだ。皆、陳腐化を回避してどうにか純粋な作品を届けようと頭を悩ませる。

 アート・ユーザー・カンファレンスによる「ジェネラル・ミュージアム」という一連のプロジェクトがある。青森県美の企画での「墓」にまつわるプロジェクトもこれの一環だ。
 自然、世界、いまに存在している環境を鑑賞対象(ミュージアム)として、あらゆる視点から検討し、近代アートの枠組みを超えた世界全体に目を向ける試み…… なんだろうか。多分。私程度では本質的な理解に及んでないかもしれない。決められた人為的な基準の中で人が「作った」モノだけしかアートとして鑑賞されない状況への問題提起、広義でのアートで世界を見つめる視点の提示……なのかもしれない。
 意図を排した試みに対する感想や私見の言語化って、常に無粋な気がする!困った。
 とにかく、記号化を排することで辿り着く境地はこういう雰囲気なのだと思う(この場合はミュージアム概念の拡張のよる鑑賞・アートの消費だが)。既製品や商品の形でなく、この世界の時間経過による変化や環境の要素をいろんな視点で取り出して切り抜き、構成していくアート。

 いや、難しいじゃん。鑑賞者はアートに馴染みがあるかなどわからないし、それは完全に「作家の意図」どうこうの埒外だ。

 彼らの展示の試みは、ハイコンテクストで、アートシーンへの強い関心がある人間を想定しているように見える。これだけ対象が絞られていれば、前提条件の省略が成り立つ気がする。作品が作品であることを問い直す、問い直すためには俗に作品と言えばどんな風に認識されるかという視座が必要で、そんな視座のためにはアートへの関心と「もの」を扱った美術の文脈に対する知識が少しでも……。

 私は、台座はよくある白い箱でもいいだろ、と思っている。キャプションが傍に添えてあってもいいし、うるさい表示でなければ「お手を触れないでください」が書いてあったっていいんじゃないかとまで思う。
 ダサいにはダサいかもしれないが、一概にわかりやすさ=ダサさではないのではない。形骸化は形式が慣習化がして起きるもので、当然ながら慣習も形式も知らなきゃわからない。作品を「作品」化する台座、表記、場という記号たちは、陳腐で安易な美術である以前にわかりやすいサインとなる。
 極論だが、美術を最初から美術だと知っている人間がいるか(いや、いない)。作り手は導き手でもある。その役割をどんな風に、どれだけ果たそうとするかは個人の自由で、そこに善悪も上下も存在しない。でも、誰にもある意味がわからないままの作品を作品と言うのは(金の話抜きにしても)難しい。いろんな難しさがある。

 美術館やギャラリーのような場で作品に行われる演出は、安易なパターンになることもある。でも、それだっていいじゃん。純粋さが最高なら、美術館なんて無いよ。ハイコンテクストなりの面白さも大好きだが、わからないことだけが美術でもないと思う。わからせない意図とか、そういうのは好きなだけすればいいが、観る人がいるなら何か分かりやすい記号の一つくらい、あってもいいだろう。そう思いました。

高速道路の先のナルニア

 高速道路の先にナルニアがあるかもしれない、と思ったことがあった。小学4年生の頃、ナルニア国物語を読んだ私は、ナルニアの夢を見ていた。正直、このまま11歳になったとてホグワーツから手紙が来ないことは薄々わかっている。認めたくないが、ホグワーツはイギリスの学校で、当然英語で授業が行われて、私は自己紹介のための簡単な英語もわからない日本の小学生だった。しかしナルニア、あの国であればいつか迷い込むことが出来るかもしれなかった。あの様々な種族が生きる美しい魔法の国では、この世界の言語の違いとかは、あまり大きな問題にならない気がしていた。
 ナルニアの美しい自然描写を、小学生の私は鮮明にイメージできていたかは怪しい。だが、遠い山々の姿とか、そういうもの自体に関しては身近だった。北東北に生きていれば山は身近で、少し高い建物の窓からは岩木山とか奥羽山脈に連なる山々が見えるのが当然だったのだ。だからそういう、見たことのある自然を代わりにかき集めて、私の中には私なりに見えたナルニアが美しく壮大に広がっていた。北東北とテレビや写真で見た壮大な自然をコラージュして出来たその国は、どちらかというとイーハトーヴに近かった(私は宮沢賢治の短編集も大好きだった)。
 家族でドライブしたときの記憶は、車内の記憶しかない。両親には申し訳ないが、私は黙って車に乗ってるのが何より苦痛だったし、家でゲームするか本を読むことだけが「良い事」で、高速道路を走る軽自動車に詰め込まれているのは地獄みたいに「無駄な時間」だった。今もそういう所は変わらない。行った先も自然豊かな観光地か何かで、小さい私は自然の魅力の何たるかを理解していなかったために、虫の多い疲れる場所をただ歩かされる苦痛の時間だった。私が一切楽しくなさそうどころかキレているので、両親もまったく笑う事もない。父も冗談を言うような人でなく、母も陽気な人ではないので、どうしようもなかった。
 そんな事を何回か経験するうち、やっと「帰りたい」が禁句だと理解し黙る事を覚えた私は、何を言っても怒られる悲しみや怒りを飲み下すために、車窓から景色を見てひたすら妄想を始めた。それで、高速道路沿いの深い森、山の中の景色を眺めて、その森林の中を駆けることを考えていた。このさきずっと行けば、魔法の国の城のひとつくらいあって良い。どうしようもない時間はあっという間に終わって、私はナルニアに行く。金色のたてがみを靡かせるアスランその人に出会えたらどれだけ良かったろう、と思っていた。
 ナルニア国物語が、キリスト教の信徒伝道者でもあったC・S・ルイスによって「子供たちにキリスト教の基礎を学んでもらう」という側面を持って生まれた作品であったことを知った今、キリスト教を信じる家だったらどんな風に育ち、どんな風にこの物語を大事にしただろうか……と思う。キリスト教の教えについて、詳しい訳でもなければ身近でもないのだが、私ならこの作品に出合えば大事にしただろう、とちょっと信じている。ナルニアの国王であるあの誇り高く美しいひとを思うと勇気がわいてきた幼い日々の心は、間違いなく尊いものだった。

蛇足

・アスランのたてがみ

 ナルニアを最後に読んだのもかなり前なのでうろ覚えだが、確かにルーシーがアスランの背に乗せてもらって、そのふかふか感とぬくもりと心地よさを感じる描写がどっかにあったはずだ。あれが羨ましくて仕方ない。私もそれがいい。それがいい。ナルニアに行けるんなら、今から人生頑張れるかもしれない。根っこがろくでなしなせいで、ナルニアに行ったとて野垂れ死ぬ定めだったとしても……。
 私の脳内の登場人物たちの印象を変えたくないし、イーハトーヴ的な魔合体をした変なナルニアを心の中で大事にしているから などの理由で映画は観たことが無いが、ちょっと気になってきたな。

・高速道路の先にあるのは案外ウソではない

 これは読んだ人だけ分かればいいが、本当のナルニアは死後にある。鉄道事故の先にあるのだから、高速道路の先にもあったかもしれない。この話はやめとくか。
 いよいよ関係ないけど、私がジョジョで一番好きな部が7部、スティール・ボール・ランだ。ナルニアもSBRも、名前は言わないけど救世主がでてくる作品だ。キリスト教をモチーフにした作品は数あれど、直接的には出さないが聖人的な存在が軸になってるあたり、不思議な共通点だ。

・カウボーイになりたいな

 昔から思っていたが最近いよいよウエスタンウエアとか探し始めているから助けてほしい。いい感じの大きすぎない帽子をGUで買った。フレアパンツとか買ったし、はやく秋になってウエスタンなシャツやフリンジ付きアウターが欲しいな。体は女だし、そう認識されて困ることもないし、それに対する違和感もないし、なんとも思わないが、なりたい雰囲気は間違いなく「髪の長い中性的な雰囲気のある男」なので、カウガールじゃなくカウボーイなのだ。
 カウボーイのスタイルがとにかく好きなので、アメリカン・カルチャーとしてのカウボーイがどこから来たのかとかも知りたくて、本を借りてきた。まず「牛がどこから来たか」の話から始まってたが、どうやら新大陸に牛を連れてきたのもコロンブスらしい。どこにでも名前があるな、こいつ。チョコレートの歴史にも、トウモロコシの食文化にも、唐辛子の話にも、船の歴史にも、名前が挙がる男。岩波のコロンブスの航海日誌をかれこれ数年積んでるのは、悪いとは思ってる。あー、スペイン村行きたいよ。

 お腹がすいてきたし、家に帰って借りてきた全訳マハーバーラタ読むから、この記事はここまで。先月から更新が滞っていたせいで、お悩み相談には何にも入ってなかったな。一応置いておくので、なんでもどうぞ。制作で思い詰めているメンヘラが答えるぞ。

いろいろ相談

次いつになるかな。まあ、精神が大丈夫だったら近いうちに更新します。もっとカジュアルに更新したいな。軽い文章を書けるよう頑張りたい。


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