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青森県立美術館 美術館堆肥化計画/沈黙と空間が標榜するもの

・書かねばならない

 いい加減、書かねばならない。青森県立美術館コレクション展2022-4での特別展「美術館堆肥化計画2022 成果展示」の感想を。
 鑑賞した直後から強い余韻が残って消えず、感想を1か月も温めてしまっていた。書きはじめた今日は2023年4月15日。この展示は明日まで。終わる前には間に合わなかったが、いい加減、書かねばならない。本当に、良い展示だったからだ。
(つまり、この記事が公開されたときにはとっくの昔に記事本文の展示は終了しています。現在の展示については青森県美の公式サイトをご覧ください。)

 
この記事は、青森県立美術館のコレクション展の中の特別展についての感想です。コレクション展全体の話をしていてはキリがないので、「堆肥化計画」以外の部分は簡単にしています。

追記・・・多忙のせいで落ち込んだり体調不良に見舞われたりしてるうちに、6月になってしまいました。終盤は記憶を掘り起こしながら書いているので、正確性を欠く部分もあるかもしれません。ご了承ください。

・「美術館堆肥化計画2022 成果展示」とは

 「美術館堆肥化計画2022 成果展示」は、青森県立美術館で2023年2月4日~2023年4月16日に開催されたコレクション展の中で行われた展示であり、青森県立美術館が2022年通して行っていた県内地域との協働から地域の魅力を見つめなおし発見するプロジェクト「美術館堆肥化計画」の成果を展示したものだ。

 このプロジェクト自体はこの成果展示の前から認知していた。私は青森県立美術館が大好きだから、SNSの更新やお知らせは見逃さないし、いつだって行きたいと思っている。貸切ってお泊りしたいと思っているし、冬のアレコホールで寝袋で寝たりしたいな、とか思っている。
 しかし大学があるし、何かと遠出は苦手なため、青森県美に行くのは帰省したタイミングに限られてしまう。館外での展示やプロジェクトの様を人がSNSに上げた写真から見ては、いいなあと指をくわえていた(十和田現美についても然り)。
 忙しくて年末も帰れなかったが、春休みにやっと行けることになった。久々に顔を合わせる友人と共に、だいたい1年半振りに青森県美へ向かう。3月上旬、薄い花曇りの日だった。

県美の入口横にあるベンチに座って
ぼーっとしていたときの視界。青森はまだ雪が残っていた。

「美術館」が歴史を語る術

・展示の構成

 展示は、アート・ユーザー・カンファレンスによる新郷村の「キリストの墓」を巡るプロジェクトについての展示から始まり、挨拶文、展示室を移動して多くの地震・津波被害を経験した三沢市の資料と美術館コレクションが並ぶ。六ヶ所村の変遷を巡る生活資料と、写真家・田附勝が六ヶ所村で作成した写真群との展示、フィルムメーカー/アーティストの小田香が現在の県南を走る鉄道の車窓風景から青森という土地に集った人々の旅路を辿る映像作品、そして幕末明治の絵師、考古学者、造園家、旅人でもあった蓑虫山人が県内に約8年滞在して記録した多くの資料で締めくくられる。

・誤読と沈黙の雄弁さ

 このプロジェクトの成果展示に際しての、県美学芸員 奥脇氏による文章を一部引用する。

地域での現代アート展開や生活資料に美術館コレクションを混在させた本展は、美術館が作品を管理し歴史化するべく切り捨ててきた曖昧性や親密さといった要素を拾い集め、それらあえてを軸とし構成されることに特徴があります。
(中略)しかし歴史家E・H・カーが示したように歴史とは「現在と過去の尽きることのない対話」であるならば、ミュージアムは歴史生産を担うとともに、地域の人々や作品との対話(交流)の中でなされた誤読や、途切れた対話の沈黙に含まれるある種の雄弁さにも目を向けてみたいと思うのです。それらをもとに美術館内部からもう一つの歴史を形にしようとする態度。そこには既存の芸術や美術館のあり方を足がかりとして、人が今ここを生きることを足元から更新させるような「術(アート)」の萌芽があると信じてみたい。

青森県立美術館コレクション展2022-4
特別展「美術館堆肥化計画2022 成果展示」 あいさつ文より

 歴史の記録と生産を、美術館だけが持つ術(アート)で行う試み。術(アート)ってルビ、いいよね。
 青森県には県立郷土館もあるのだが、ここは令和二年から老朽化に伴い改修のため休館している。小さい頃から何度も訪れていたが、本当に良い施設だ。デカい剥製とか民間信仰の資料とか青森の歴史資料がわんさかあり、かなり広く、超楽しい。休館終わったらすぐ行くからね!
 閑話休題。
 美術館で「歴史」を生み出すことは、単に歴史資料から史実を読み解く事ではないし、その他多くの歴史を探求する学問とも異なる視座を必要とする。そこで歴史を語るにあたってしばしば排除される「誤読や沈黙のある種の雄弁さ」に目を向けて語る。歴史が人を介して生まれることは言うまでもないが、美術館だからこそ持てる視座だ。
 芸術は常に曖昧で観念的な(言語化できない)ものを含んでいる。人々の生きる中で生まれる曖昧性は、人の感覚・文化・時代など複合的で複雑なもので成り立つ美術作品と重なり、それこそが美術館が生み出す歴史になっていく。

・忘れていく青森を覚えておくこと

  私は青森市で生まれ育った。青森は田舎だし、北国で薄暗くて派手な物はなくて素敵な事はあんまりないように感じていた。青森であんまり楽しい青春を過ごしたとは言えなかったが、良い美術館があった。
 青森県美が「青森という土地にあること・青森で生まれるもの」を大事に保存していること、それを自分に連なるものとして嬉しく感じられることが、救いになっていたと言って過言でない。
 青森の中の田舎。人が減り、店が減り、シャッター街が目立ってきて、いろいろな物が放棄され、忘れられていく最中にある空き家が道路沿いに佇む。そんな光景を傍目に生きてきた人間として、風土との結び付きを大切にしてる県美が、現在と過去の青森の「忘れられるもの、記されないもの」に切り込んだ展示をしているのは胸が熱かった。

 歴史の再生産だのなんだの、難しいことを提示して見せているようで、手を取って導いてくれる展示空間だったように思う。見ているだけではわからないから、見る事自体を考える。
 六ヶ所の写真と資料の並ぶ展示室では、「忘れたことを忘れないで」と書かれているのを目にして振り返ったら、ぼろぼろの昭和初期の馬のおもちゃがただそこにあった。どきっとして、それが誰の物なのかも知らないのに胸が締め付けられるような感じがした。それ自体は昭和初期に使用されていた子供向け玩具でしかないのに、塗装も剥げて角も欠けてそこに佇む姿は、「忘れられたこと」を標榜しているようだった。
 六ヶ所村には大規模な開発の歴史がある。原子燃料サイクル施設などエネルギー関連施設が多く並び、村に豊かさをもたらした半面、人々が暮らしていた土地・そこに根付いた生活を手放すことになった事実もある。
 構成の中にはっとさせられる些細な仕掛けが散りばめられていて、思考の過程を踏まえた体験として鮮烈だった。歴史は人の営みの連続に見出されるものだが、1人間として生きている以上、何もかもを覚えてはいられないし、知ることもできない。展示では、忘れることも知らないことも咎めたりせず、自然なこととしているように感じた。「沈黙と誤読の雄弁さ」。
 非当事者として間接的に覚える罪悪感、同時に「忘却や無知を必要以上に意識することは無いのではないか」という幾ばくかの安堵。そうであるならばせめて、見て考えた人間として「忘れる事を忘れない」こと、忘れ掻き消えていくものの上に生きていることを覚えておく。三沢市の地震・津波被害の歴史を見る資料展示からも、背筋が伸びる感じがした。

・地元の美術館の床で100面ダイスを振る

 まさかふらっと行った地元の美術館の床で100面ダイスを振らされるとは。アート・ユーザー・カンファレンスによる展示「‘そこ’は墓でなくもない」。
 青森県新郷村には、「キリストの墓」と伝わる場所が存在している。そのどう見ても「墓ではない」ように感じる場所を「墓でなくもない」として、その場所が持つ要素を分解し、鑑賞するように紐解き、見出す。その思索と行為の記録であり、環境そのものを美術鑑賞の場にするような試みだ。
 この展示からアート・ユーザー・カンファレンスを知ったが、どの展示やプロジェクトも興味深く、個人的これから活動を追いたい人たちリスト入りした。「キリストの墓」にまつわる一連のプロジェクトが展開されるのをTwitterで見ながら、例の立て看板などを現地で鑑賞できない悔しさを噛み締めていたので、今回成果展として再構成された展示を見ることができたのは本当に嬉しかった。

 さて、100面ダイスの話に戻ろう。床に100面ダイスが二つ落ちており、出た数字を傍にいるスタッフに渡すと「おみくじ」がもらえるとの事で、さっそく振って、番号を伝えた。静かに4つ折りの正方形の紙を渡される。

渡された「おみくじ」

 恐らく「貴方は今生きてる(死んでいない)。無数に存在する分岐点の中で無数の選択と偶然があり、その全てで死を回避した結果、今生きていてこれを読めるのだ」みたいな事が書いてある(のだと思った。この文章にすら明確に意図された意味はないのかもしれない)。同行していた友人の貰った紙も全く同じだったので、中身が変化するものではないようだ。

(追記:違うバージョンがもう一つありました。)

 床に落ちてるダイスを振る、番号を伝える、これをおみくじとして手渡しされる。その体験と行動と紙を貰うために「41番でした」と伝えた事、その為にはたらいた意志、それら全部の結果、これを読み「意味わからん」と思ったり「どういうことなのかな」と思う。これを読むことで無為にも感じられる「中身に変化のないおみくじを引く」出来事自体も、また無数の分岐点の顔をして記憶される。「だから、お前は生きてる」とただ突きつけられたような奇妙な愉快さがあった。

 極端に見える言葉からある種のヤバさ・怖さを感じる所もあるが、床に直置きされた細々と書かれた文言をしゃがみ込んで読んだ時点で、こちらもちょっとヤバいのかもしれない。ダイスを振るとかだけでなく、読み解こうとすればするほどに展示に介在させられているような感覚があった。
 美術館で歴史の生産を試みる企画の中で「墓」を採り上げている事で、「だからお前が生きてることは、様々な認識を通じてどこかで歴史になる」みたいなニュアンスを感じた。が、私が個人的に「読み取った」と思ったもので、これも誤読の一種かもしれない。
 キリストの墓ではないが、キリストの墓と伝わり大切にされる場所を、「キリストの墓である」として自販機の看板にすら聖人の名を見出す行為は「沈黙する物質を誤読した結果の雄弁さ」と言える。鑑賞という行為を通じて、芸術の外の芸術を用い、世界を見つめる。アート・ユーザー・カンファレンスのスタイルが炸裂しているように思った。
 人と人・物質・環境の間に生じる誤読の重なりが、極東の島国の北にある田舎に「キリストの墓」を誕生させたのだとしても、誤読は一概に排除されるべきものという訳ではない。むしろ場所を大切に扱う心の重なりをも生じさせたそれは、純粋に歴史が紡がれる場と言えなくもない。かもしれない。

 個人的に超刺さった展示だったが、これが企画展の目玉という訳でもなく「定期的に入れ替わる常設展の中のコーナーの中の一作品」でしかなかったのもゾワゾワするポイントだ。良い鑑賞体験だった。
 しかし、鑑賞を行う個人の認識を媒体に展示が構成されているように感じたけど、それってもの自体に標榜させた作品群を見せる事よりも、(展示空間の意義を示すことが出来るのかという点で)超怖いと思うんだけど、一体どんな人間たちがコレをやったんだろう……と怖くなる展示でもあった。この展示にあった「誤読」と思索の過程のように感じられる一連の展示は、文字と写真のパネルだけで綴られていた。アートの「ユーザー」を名乗る彼らの顔が想像つかない。作家性というものが、コンセプトや方向性としては認識できるものの、血の通った人間の集団みたいなビジョンが見えない。匿名の見えない「ユーザー」の集団、同じ人間のはずなのに不思議と遠く感じられる「アンケートの平均から見える意見」のようなフィルターが間に存在している感覚。木製の棺桶入ってみればよかった。床に置かれ「中で眠ってください」と書いてあったあれの中で目を閉じれば、何かもう少し考えられたかも。友人と周囲の人の目線にビビってしまった。少し後悔。

・堆肥化計画の浪漫

アート・ユーザー・カンファレンスによるプロジェクトは、「青森県の田舎にあるキリストの墓と伝えられた場所」という異質を、墓(生と死)・キリストの教え・場所 の要素に分解し、さらにそれぞれの素材・場所(位置)・時間を並べていく。まさに「堆肥化計画」における美術だからこそ記す事のできる、誤読が示す歴史だった。

六ヶ所村の自然の写真は、パネルで展示されている部分は立体的に見えたが、少し近付いてみると薄い板に貼り付け奥行きを出していた。なんとなくハリボテのようだった。照明があまり向けられず、展示室の角になんとも言い難い虚しさで重ねられ、佇んでいる。忘れられたものたちの破片を納めた写真の傍にあって、人々(私たち)によって「これから忘れられるもの」なのかもしれないと思わせた。

災害の記録と痛みのために形作られた物たちが並ぶ様子は、沈黙=途切れた対話を考えさせる。
明治の三陸津波、昭和の震災、そして東日本大震災。その傷を記し残したものを前にしたのが奇しくも3月11日であったというのは、この時考えたことを自分の中に留めておくために良かったと思った。

どの展示も、難しい言葉や生々しい記録の軸には、ただまっすぐ「歴史を記録すること」が通っているように感じられた。美術鑑賞であり、それだからこそ生まれ得る誤りや欠損の歴史。
 従来の歴史研究の視座では排除された部分に自由を以て記録するだとか、間違いを間違いとして許すような企画でなく、どれも美術の中で行われた誠実な記録の試みであったと思う。
 三八上北の郷土資料に美術館としての術を見る、その文言に嘘偽りなしのすごい展示だった。

・ケーキと11ぴきのねこ(ゆるい感想)

 これ一つで広い展示室を何個も使ってもいいくらいのボリュームなのに、常設展の2階でギュッ!としてあったものだから、ものすごく疲弊した(もちろん有意義で素敵な鑑賞体験として!)。鑑賞後にカフェで食べたケーキ一個分くらいは余裕でカロリー消費した気がするくらい、疲れた。ケーキもおいしかったな。

おいしかったチーズタルト

 青森県立美術館の中のカフェ「4匹の猫」、美味しいし雰囲気も良いし、過去の展示図録がわんさか置いてあるし、隣がミュージアムショップだし、素敵な場所なのでおすすめです。
 コレクション展の最後には馬場のぼるの原画が並んでいた。沢山の、ねこ。11ぴきと言わず、何百ものねこ。ぬるりとした線の、アホっぽい顔の、かわいいねこ達。頭を使わずとも見てわかるかわいい姿。それらで癒されて、ちょうど良い感じがした。展示の緩急が凄すぎて、人生で一番11ぴきのねこ達がありがたく、可愛く感じられて、帰りにプラコップを買ってしまった。かわいい。

かわいいプラコップ。かわいい。

 あらためて、この美術館が地元にある喜び、優越感みたいなものすら感じた。美術館に行く楽しみを教えてくれて、美術系に進学するきっかけをくれた美術館が、ちょっと大人になった今でも新鮮な驚きと体験をくれる。「美術館堆肥化計画」、ここ数年で観た中で一番の展示でした。
 青森県立美術館、ありがとう。楽しかったです。次は夏に行きます。


・参考リンク


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