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久しぶりの帰郷。七夕の日に思う(元野中広務事務所前)

 金曜日から京都に帰ってきた。現役の秘書時代から大変お世話になり、今も尚、ご指導いただき尊敬している方に食事をご馳走になりながら懐かしい話を聞かせていただいた。野中先生亡き後も、個人的なことでもご迷惑をおかけしているにも関わらず、私に変わらず優しく接していただき本当にありがたく思う。野中先生の昔話を安心して出来る貴重な存在の方である。最近は、そのような話が出来る方も少なくなり寂しい思いもする。
 タイトルの写真は、昨日撮った元京都事務所があったところだ。町並みもすっかり変わってしまった。私がまだ、学生の選挙運動員だった頃は、京都駅の八条口の道路を挟んで向かい側ではあったが、昔ながらの家が道路に面し並んでおり、その中の一つの二階建て民家をリニューアルした1階に事務所があった。靴をぬいでスリッパを履いて上がっていくつくりだった。大学を卒業したら事務所に入れてもらいたい一心で、学校の帰りなどによく顔を出した。
 昨日は、京都駅で知り合いと会った後、久しぶりに両親の墓参りに行こうと、近鉄京都駅に向かう途中、元の事務所がどのようになっているのか少し遠回りして前を通った。「そういえば、京都市では、中京区で市議会議員の補欠選挙、東京では都知事選挙と都議会議員補欠選挙も終盤を迎え、明日の七夕が投票日だな。」と思い出した。
 私が事務所に入った年も衆参ダブル選挙で七夕が投票日だった。茹だるような京都の蒸し暑さの中、「夏の選挙は、冬の選挙に比べると肌が陽に焼けて健康的に見えて悲壮感も漂わず体力を消耗するので大変だな。」と歩きながら野中先生の初陣の昭和58年の夏の補欠選挙を思い起こす。
7月18日に公示され8月7日投票日だった。
選挙期間が今と違い20日間あり、各候補者が一つの会場に集まって1人づつ政見放送のように、自身の政策を述べる公営の立ち会い演説会というものがあった。
この立ち会い演説会に、私たち運動員が「サクラとして参加してくるように」と選対の幹部から指示が出されて動員された。私は、そこで初めて野中先生の演説を聞いて衝撃を受けた。会場は、京都府向日市の向陽小学校の体育館だった。
今もその時のことを鮮明に覚えている。野中先生の前に演壇に立ったのは、日本共産党の候補者有田光雄氏(有田芳生氏の父)。その演説の中で「田中角栄を骨まで愛すという候補者がこの中にいる」とロッキード事件の二審判決の前だったので、そう言ってネガティブな文言を演説の枕詞に入れられた。
次に、登壇するのが自民党公認の野中広務候補者。野中先生が演壇に立たれると、会場は「しーん」と静まる。
その冒頭、野中先生の口から出た言葉は、
「盛者必衰。会者定離。生ある者は、必ず死す。愛のない社会は、暗黒であり、汗のない社会は、堕落である。私は、そう思ってやってまいりました。」と始まる。会場の至る所から「田中ひろむ!」というヤジが飛ぶ。するとヤジを飛ばしたひとりを指差して「そこのあなた、あなたたちが信奉するソ連のクレムリンの赤い広場に行って政権党に向かって今のヤジを飛ばしてみなさい!即刻あなたは、銃殺ですよ!私たち自民党が政権をとっているからあなたたちは、自由にそういうことも言えるのだ!」と壇上から言い放たれた。私は、それを見て「この人いったい何!凄い!」と身体に電気が走ったように鳥肌が立つた。その演説を聞いたことで私の人生が大きく変わった瞬間だった。
野中先生の演説の枕詞の「盛者必衰、会者定離」というのは、平家物語の一節を変えて「盛者必衰」は、「28年続いた京都府の革新府政も隆盛を極めたが衰退している。」また、「会者定離」と「生ある者は、必ず死す」ということは、「出会ったものには、いずれ別れがくる。京都府政で与野党の離合集散もあり、この世界も諸行無常である。補欠選挙は、この選挙区から出られていた自民党のふたりの先生方が亡くなって選挙になった。そういう別れがあった選挙だ。」ということで「愛のない社会は、暗黒であり、汗のない社会は堕落である。」というのは、「今まで行われていた共産党府政に対する批判で、汗をかいたものが報われる社会にしないといけない。」ということを表されていた。
 また、この選挙では、各候補者からの自民党批判を一手に野中先生が受けた選挙でもあった。
この時の野中陣営のキャッチフレーズは、引退するまで使った
「いい郷土(くに)つくろう!」を主軸として
「汗と愛のある福祉社会を!」
「京都の隅から隅まで知り尽くした政治家」
「京都で生まれ育った政治家」
「土の中からはいあがった政治家」
などだった。
先にも述べたが、夏の選挙は、暑くて陽が長く体力が消耗する。この時の選挙から数年経って、先輩秘書から聞いた話だが、選挙が終わってしばらくして野中先生の太腿をみる機会があり、先生の太腿に青あざや小さな刺し傷が多数あったので「『先生、その太腿どうされたんですか?』と驚いて聞いたら『街宣車に乗っていて疲れて眠たくなる。寝たらいかんから、ペンで太腿刺したり、つねって眼をさませてたんや』ってオヤジが言ってたわ。」ということであった。選挙期間が短くなったとはいえ、そこまで夏の選挙は、候補者にとって過酷な戦いである。この夏の選挙を戦い抜いた各候補者に深い敬意を表します。
元京都事務所の前を歩きながらこのようなことを思い出していた。昭和58年の夏の補欠選挙を最後に公選法が改正されて公営の立ち会い演説会がなくなった。今考えると立ち会い演説会で野中先生の演説を聞くこともなく補欠選挙も経験していなければ、私は、違う道に進んでいたかもしれない。

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