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神社と私…なぜ感じ方が変わったのか

この記事は、運命アドバイザーの七条文堂さんに教わったことと、自分自身の神社に対する感覚の変化についての考察です。私は今も以前も霊媒体質ですが、とある出来事の後から感じ方が真逆に変化しました。

書籍に載せた内容と重複する部分もありますが、これは書いておこうと思います。少々過激な意見かも知れません。
長文になりますのでお時間のある時にどうぞ。


人々はなぜ年始に初詣をするのか

子供の頃は、なぜお正月には初詣に行くのか、考えたこともありませんでした。

物心ついた時には当たり前のように、毎年、家族で近所の神社へお参りに行っていたので、何の疑問も持たなかったのでしょう。

七条文堂さんに出会って様々なことを教わる中で、なぜ人々は年始になると初詣へ行くのだろうと、改めて思うようになりました。


そもそも、先人はいつ神社を作ったのでしょうか。

調べてみると諸説あるようですが、古くは1万5千年前、縄文時代あたりという説もあるようです。

縄文時代の人々が、神の存在を感じて神社の元となるようなものを作ったのか、はたまた、もっと後の人々が作ったのか定かではありませんが、いずれにせよ、かなり古い時代なのではないかと思われます。



その時代に比べると、現代は、多方面で大変発達してきています。

科学や医療が進み、世界はインターネットで繋がり、地球のまわりを太陽が回っているのではなく、地球が太陽のまわりを回っていることが通説になりました。

今の時代で「天動説を信じている」と言えば、きっと常識外れになるでしょう。


古代の人々は現代人とは違い、現在の通説からすれば、ずいぶんと古い考えや通説で生きていたのですから、その時代に作られた神社という概念も現代的ではなく、古代の考えから生まれたと言えるのではと思うのです。

「新年になれば歳神様が家を訪れるけれど、地元の神様は神社にいるから、初詣に出かけましょうね」という、親から教わったこの概念が日本独自のものであるならば、他国では同じようにはしないでしょうし、宗教が変われば、年始には全く別の行動をすることもあるのでしょう。

まず、神様という存在の解釈が世界的にまちまちですし、日本限定で見渡しても、神様の概念が何通りもあるようにも受け取れます。


神社の関係者様や、神社を大切に思い崇められている方には、かなり失礼な物言いになり申し訳ありませんが、神社に神がいるという概念は、古代の人々が生きたその時代の通説や感覚を元にして生まれたものであるなら、もしかすると事実にそぐわないということはないのでしょうか。

もちろん、先人から受け継ぐものは大切です。「大器晩成」の言葉などは、現代にも通じる素晴らしい考えだと思いますし、歴史から学ぶことも多々あります。

しかし、時代はすっかり進化しています。私は無神論者ではなく、神がかったような経験もありますし目に見えないものも感じますが、古代からの通説としての神社仏閣の概念は、良く言えば伝統的で悪く言えば時代遅れでもあり、ある意味では、天動説のように稚拙かも分からないのです。


なぜ今の時代でも、神社に神がいて年始にはお参りをするという古代の通説がそのまま語り継がれ、信じられているのでしょうか。

一つには、目に見えないものの真実を見極められる方が少ないからではないかと思います。

神様は数値化できません。しかし、目に見えないエネルギーを正しく感じ取ることができれば、ある程度は検証できるのではないでしょうか。


いつの時代も、巫女やシャーマン、イタコのような、霊的な存在の声を聴かれる方々はある程度おられたでしょうし、現代でもおられます。

私自身も霊的な存在の声を聴いたことがありますし、今でも意識を合わせれば聴こえるでしょう。

古代のそのような方々が、霊的な存在から、鳥居を作りなさい、形状や位置はこうしなさいと指示を受けたのかどうかは分かりませんが、何かの形で霊的なインスピレーションがあり、現代に続く神社となっているのではないかと推測します。


では、その霊的なものの指示や、受けるインスピレーションは、果たして本物なのでしょうか。

これはなかなか検証できません。匂いや甘味など、直接目に見えないものを計測する機器が開発されているものもありますが、神様や霊的な存在、人の気などは数値化できないからです。

数値化できず立証できなかったとしても、世の中には、古代現代に関わらず、科学で裏付けられない不可思議なことがあるというのも現実でしょう。

まだ現代でも解明されていない、何らかの謎のエネルギーが存在している可能性を否定することはできないのではと思います。


大半の方は、普段の暮らしの中でこのようなことは特に考えず、検証しようという方も少数でしょうし、昔から言われているから、親や親族や知り合いにそう教えられたから、学校で勉強したから、資料で調べたから、日本の伝統だから等、それらを根拠として考え、神社には神がいて年始には初詣をするものだと、何の疑問も持たずにいるでしょう。

私自身も、七条さんに出会うまではそうでした。


以上のことをまとめていくと、「きちんと検証していない天動説」のようなものを、多くの方は疑問を持たないまま、現代も続けているとは言えないでしょうか。

時の総理や権威あるお方も神社に参拝をされているようですから、国家ぐるみで、古代人の言ったことを鵜呑みにしているということにはならないのでしょうか?

私は七条さんがおっしゃることや、様々な自分の体験を通して、このようなことを考えるようになりました。


神社で感じるの空気感の変化

私は目に見えないエネルギーに敏感な霊媒体質です。30代半ばで見えないものに敏感になる前は、一部のお寺で体調を崩した以外、神社仏閣に行っても何も感じませんし、何事も起こりませんでした。

祖母の法事を境に、急激に敏感になってからは、神社の空気感が他と違うことを感じ取るようになりました。


神社の境内の、手水の前辺りに見えない空気の壁があると感じられたのです。

その見えない壁を境にした本殿側は、空気がキーンとしています。本殿側に心地よい緊張感があり、清々しく感じられる感覚です。

当時の私は、神社の本殿に神様がいると思っているので、神様のおられる本殿側は空気感が違うのだろうと勝手に解釈していました。

今も、当時の私のように感じられる方々は多くおられるのではないかと思います。


ところがです。書籍にも載せましたが、神社にまつわる霊的なことで大変な目に合い、七条さんに助けていただいた時期から、霊媒体質の感性が変化しました。

よく見かけるスピリチュアル用語で言えば、七条さんに出会って、急激に覚醒が進んだと言えると思います。

感性が変化すると、神社に対しての感じ方も変化しました。

それまでは心地よく緊張感があると感じていたはずなのに、神社に近付くと逆に変な感じがして、吐き気や倦怠感などの体調不良を覚えるようになりました。



以前はよく足を運び、そのたびに心地よさを感じていた同じ神社なのに、いつの間にか、心地よさを全く感じなくなり、体調は崩れるし、どこか嫌悪感さえ覚えることもあったのです。

七条さんに「無限龍」という龍のエネルギーをつけていただいてからは、無限龍が守ってくださって激しく体調を崩すことが減りましたが、それでも、神社に近付くだけで嫌なエネルギーを感じるようになりました。

やがて私は神社に興味がなくなり、行くのをやめました。


神社にお参りする人々の念

神社に対する感じ方は明らかに変わりましたが、神社自体は、さほど大きく変化をしていないのではと思われます。

変わったのは私の方で、きっと私自身の感性が変化したのでしょう。

もし私が七条さんに出会っていなければ、今でも神社を清々しく感じられていたかも分かりません。

しかし、もはや以前の感覚とは真逆に感じられるようになっています。


ではなぜ、七条さんに出会って感覚が変わったのでしょうか。

それを考察するには、まず、神社とはどのような場所であるかを考える必要があると思います。


神社は、神様がいる場所であり、神聖とされています。

人々は神社にお参りに行って何をするかと言えば、大半の方は、自分のお願い事をしに行く目的でしょう。

一部の方は、ご挨拶という気持ちで行かれる方もあれば、癒されたいから、節目にしたいから、習慣だから、散歩がてらにという方もおられるでしょう。

大きな神社であれば、国内のみならず、海外からの観光目的の方等も大勢来られるかと思います。


では、大半であるだろうお願い事を目的とされる方は、どのような状態でしょうか。

漠然とした軽いお願い事の方もいれば、藁をも掴みたい気持ちでお参りされる方もおられるでしょう。

様々な事情で深い悩みを持たれ、何とかしたいと必死に願う方も、何人も訪れていることと思います。

また、勝負事などがあり、絶対に勝ちたいと願う方も来られると思います。

中には私利私欲を全面に出し、儲かってお金持ちになりたい、両想いになりたいなどとお願いする方もおられるかも知れません。



そういった方々が大勢来られると、その方々の悲しく苦しい気持ちや、欲深い方のワガママな気持ちが神社へ向けられます。

これは私自身の今の感性でですが、七条さんに教わった通り、人の心の念は、生きている限り、何も考えずただそこにいるだけで漏れ出ています。

時に、心に何かをふっと思い浮かべたなら、その念は一瞬で思い浮かべた対象へ移動し、付着すると感じています。いわゆる生霊と呼ばれるものも、これと同様だと思われます。

人間の半径数メートル、元々の念や気持ちが強い方は半径数キロメートルに渡って、その方ご自身の波動が漏れ出ているのを感じてしまいます。

何もしなくても漏れ出ている心の念は、強く願えば猛烈な念の塊となって、その方々から発せられるのではと思います。


もしこの感覚が正しければ、神社には相当なマイナスの感情が付着している理屈になります。

私はこの理屈を七条さんに教わりましたが、教わったことをまさに自分の身体で感じるので、七条さんのおっしゃる通りだなと納得できます。

しかし、以前の自分だったらどうでしょうか。

自分には神社が清々しく感じられるのに、なぜそんな風に言うのだろうと、この理屈を疑っていたかも知れません。


深刻なお願い事や、ワガママなお願い事をしに神社へ行かれる方々は、人生がうまくいっていないがために、そのようなお願い事をされることと思います。

人生がうまくいかない方々の運気は、あまり高いとは言えないでしょう。

運気の低い方々が集まれば、どうしてもその場の運気も低くなりがちです。

マイナスの感情を多く持った方が大勢来られる場所である神社の運気も、高いとは言い難いという理屈になります。

そこへさらに、人々から発せられるマイナスの感情が神社の土地建物に付着し、空気中を漂うので、神社自体が負の場所となってしまうのではないでしょうか。



神社関係者の方々も、苦しむ人々をご覧になって、お辛く感じられるのではないかと思います。

神社を頼る方々も、受け入れる側の方々も、心身を壊されないようにご自愛いただきたい気持ちです。


なぜ神社に対する感覚が変わったのか

改めて、ではなぜ私自身の感覚は、真逆になるほど変化したのでしょう。

これは私自身の推測ですが、以前の私の精神的レベルは、神社の土地建物に付着している念のレベルと合致していたのではないかと思います。

私自身に、悲しく苦しい気持ちや、ねたむ心や、ワガママな部分が多かったので、神社に付着している念と同じものを持っていたと思うのです。

そして私自身も神社に行っていたので、様々なことを思うだけで、神社に私の念が付着していたことでしょう。


当時の私自身としては、その自分が普通の自分であるので、それらの気持ちを持つ自分と向き合うこともなく、むしろそのようなマイナスは周りのせいにして生きていました。

自分には特に問題はないと思っていますから、自分と向き合おうとしないですし、自分はそんな人間ではないという変なプライドも持っていました。


しかし七条さんに出会い、七条さんの心根から発している念を浴びたことで、私の心が変化したように思います。

七条さんをよくご存じの方ならお分かりだと思うのですが、七条さんは、何よりも人の命を大切にされていて、誰かが亡くなるということは大変なことだと考えられています。

そのため、苦しむ方を救うためなら、ありとあらゆる知恵を絞り、身を削ってくださいます。

七条さんの生み出すエネルギーは、とてつもない浄化パワーがありますので、気を浴びるだけでも心のクセを落とし、辛い負の感情も消えていきます。

私は七条さんに触れ、そのお心の波動を私の身体が感じ取ると、私自身に潜む苦しみの種が落ち、マイナスの感情が癒され、また、自分自身を見つめ直す機会にもなったのです。


すると、私の心は、少し成長しました。

自分はそんなことない、問題があっても何かのせいだと考えていた幼い私はちょっと大人になり、自分自身のマイナスと向き合い、考えられるようになりました。

それができるようになると、やがては私の心の中から、苦しみや悲しみ、ねたみやワガママなどのマイナスエネルギー量が減り、神社に付着しているマイナスエネルギー量とは釣り合わなくなったように思います。



こうなってくると結果的に、そのようなマイナスの感情が、私には毒のように感じられてきたのではないでしょうか。

ですから、神社に行くと気持ちいいという感覚が変化し、変な感じや嫌な感じを強く受けるようになり、それでも近付けば体調を崩すようなことになったのではと考えています。

自分の中の負の感情が減ったので、周りにある負の感情を敏感に察知するようになり、負の感情が溢れているところには行きたくないと思うようになったのかも知れません。

いわゆる、「周波数が合わない」などと表現されるものに近いでしょうか。

それまでは神社と自分の周波数が合っていたのが、自分の心が成長により変化したため周波数がズレて合わなくなり、感覚が変化したと言えるかと思います。


神社の土地や建物に付着している気を感じるようになると、今までの自分の感覚は浅かったことがよく分かりました。

霊媒体質の症状が強く出るようになってから15年の間に、その時々の自分の心の成長と、心身の清まり度、自分自身の運気にも関係して、感じる対象や感性は変化することを知りました。

ですから、神社が心地よいと感じられる方もおられますし、神社は苦しくて近寄れないという方もおられるのでしょう。

どちらがどうということではなく、今現在はその状態であり、それも一つの学びになる大切な時なのだと思います。

ただ、現在の私の感覚で言えば、神社に溜まっている負の要素が多すぎるので、よほどのことがない限り、近づかない方が身のためだと感じています。


七条さんに出会うきっかけとなったことに関する記事です。この霊的な黒狐は、神のふりをして神社にいました。ご参考まで。


最後に

私を救ってくださり、私自身の幸せの邪魔をするものや、心の成長を促すきっかけとなった七条さんには、心から感謝しております。

私は七条さんが教えてくださる様々なことを、自分の体で実感するので、なるほど理屈が通っているなと、心から納得できるのです。

私がこんなことを考えるようになったのは、七条さんがおられるからこそなのです。


もし良かったら、なぜ年始には初詣に行くのか、改めて見直してみていただければと思います。

また、七条さんがおっしゃるこの理屈で初詣や神社参拝について見つめ直すとどのような結果になるか、目先のことだけではなく、子々孫々にとってどのように影響があるか、考えるきっかけにしていただければと思います。


最後になりますが、神社の関係者様や、神社を大切にされる方々には大変失礼をいたしました。

見えないエネルギーに敏感な者の一意見として、寛大なお心でご覧いただけるとありがたいです。

そして、日々救いを求めて神社へ来られる方々を癒すには、その方々の苦しみを和らげるには、何をどのようにすればいいのかを考えるにあたり、普段はあまり注視していない、当たり前にしている部分を見直す機会となれば嬉しいです。

また、今まさに苦しみの渦中におられる方々は必死に生きておられるでしょうから、神頼みをしたくなる気持ちも痛いほど共感しますが、果たしてこの苦しみが神頼みで本当に救われるものかどうか、見極めていただければと思います。


皆様がより良い人生を歩めますよう。


長文をお読みくださり、ありがとうございます。


七条文堂さんインスタグラム https://www.instagram.com/maoo_511/

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