大学2年生
大学2年目 4月に20歳になりました。JOC杯は、20歳以下のカテゴリーまでとなるため、ラストジュニアとなりました。何としても日本で優勝して、世界の舞台へと臨みました。
決勝で接戦に敗れ、準優勝
上記の結果から、
アジアジュニア(20歳以下)選手権 日本代表
となりました。
2年目のリーグ戦
全6試合を行い、74kg級に先輩と3試合ずつ出場しました。
毎年早稲田大学は、優勝候補と挙げられながら、なかなか目標を達成できません。
素直に悔しいです。チームで勝つって難しいですが、勝てた時、新しいステージに行ける気がします。
ちなみに2年目の私は、出場した3試合は、全勝しました。
大会の時に、いつもお世話になっている早稲田スポーツ新聞会の方に、東日本学生リーグ戦の開催をPRする画像を作っていただきました!
凄い嬉しかったです!
2回目の明治杯
74kg級には、12名のエントリーがありました。その中で、早稲田大学在籍、出身者は、3人います。組み合わせが、まさかの3人が、予備戦、1回戦で当たるという最悪な展開でした。普段から練習してもらっている先輩との試合は、互いに手の内を知る中であり、やりにくかったです。試合の展開もなく、呆気なく負けました。
東日本学生春季選手権
情けない話、これが大学に入ってから、初めての金メダルでした。ここで勝つのは、自分にとって当たり前であり、最低限でした。
アジアジュニア選手権
インドのデリーで開催されました。「優勝」しか考えていませんでした。
準々決勝で、試合中左膝の内側側副靭帯を損傷しました。歩くだけで、痛みがありました。
準決勝は、モンゴルの選手でした。少し甘い気持ちがあり、怪我をしてても勝てるだろうと思って試合に臨みました。試合開始直後、痛めていた右膝を再び痛めてしまい、力が入らず、そのまま10失点を許し、敗北しました。
怪我をしていましたが、最低でもメダルを取って帰る。最後のジュニアの試合だから、怪我をしてでもやり切りたい。後悔をしたくないと思い、膝にテーピングを巻き、3位決定戦に強行出場しました。アドレナリンの効果もありましたが、痛みを凌ぎながら、試合をしました。
ワンチャンスから獲得したポイントを守り切り、銅メダルを掴み取りました。優勝を目指していた分、不完全燃焼な部分もありました。
金メダル欲しかったな〜〜〜〜
**2回目の インカレ **
アジアジュニアの膝の怪我もあり、練習ができる状態ではありませんでした。昨年計量失格で出場できていなかったので、「出たい」という意欲があり、試合に向けて、できる範囲で調整をしていました。しかしながら、スパーリングもできない、ランニングも充分に走れない状態のため、体重調整も困難でした。試合3日前に、試合に臨める状態ではないと判断し、二年生の インカレも出場することは叶いませんでした。
夏恒例 和歌山合宿
今年の夏合宿も、アジアジュニアの膝の怪我もあり、練習は充分に参加できませんでした。少しずつですが、打ち込みやランニングなどもできるようになってきました。また、皆さんに自分の技術を共有させていただきました!
福井国体
怪我の回復も順調に行き、迎えた国体では、大学1年の頃の明治杯で負けた相手にリベンジを果たすと、まさかまさかの決勝まで勝ち上がりました。しかしながら、リベンジをした時に、肋骨にヒビが入っていました。決勝は、大学の2つ上の先輩で、肋骨が痛いというのも知られていましたが、しょっぱなそこを狙われました笑
でも、実力差が出ましたね、、、
試合後、潔く、「悪い!狙った!笑笑」と言われ、それほど本気で相手をしてくれたんだと感じました。笑
先輩に、「花を持たせた」ということにしておいて欲しいです。笑
本当にお世話になりました!
ありがとうございます!
2回目の 内閣総理大臣杯
この内閣総理大臣杯は、各大学各階級1人まで出場することができます。国体の決勝で、闘った先輩は、ラストシーズンということもあり、本来の自分の階級である70kg級を選択しました。それを聞いて、私は74kg級に出場する!頑張ろう!と意欲を燃やしていました。
しかしながら、ある時、監督から97kg級に出すと言われました。「言ってることの意味がわかりません」と言うと、チームのためだと言われ、コーチ陣では、その方針で行くと決まっているとまで言われました。
正直、適当に流していれば、97kg級に出場することはないと思い、返事を保留していました。翌日になると、練習中に呼び出され、また同じ話をされました。「早く同意してほしい」と言われ、申し込みの期限を聞くと、明日までだから、「今日中に決めてほしい」と言われました。なぜ74kg級と言うオリンピック階級にこだわり、国体で74kg級で結果を出したのにもかかわらず、そのような話をするのか理解ができませんでした。ただチームのためだと言われ、期限が迫っていると言われると、私が内閣総理大臣杯に出場する選択肢は、97kg級しかないと悟り、仕方なく、同意しました。相談もなく、押し付けられ、20kg以上もの体重差がある相手と試合をするなど、怪我のリスクしかありません。私に取ってのメリットがあまり見つかりませんでした。決まってしまったものは仕方ないと思い、開き直る他ありませんでした。組み合わせは、初戦からインカレのグレコローマンチャンピオンでした。
ご覧の通りの体格差、、、
周りの観客は、まるでプロレスでも見ているなこように、湧いていました。スピードを生かし、10-0と10点差をつけることができ、テクニカルフォールで勝利しました。続く2回戦では、 インカレのフリースタイルのチャンピオンでした。普通に組み合わせ悪すぎ。
「なんで両スタイルのインカレチャンピオンと試合しないといけないねん。」
相手は、小学校時代からの仲であり、高校もほとんど一緒に練習していた先輩だけあった分、体力を削りながら、弱点を突きました。2ピリオド目開始までは、得点もリードしていたことから、「これ勝てるんじゃね?」と思ってしまった時、捕まりました。捕まってしまうと、力勝負になるため、秒殺でしたね。笑
74kg級で勝負したかったな〜
伝統校の象徴
早慶戦
大学1年の時もありましたが、書くのを忘れました。笑
唯一、応援部が試合の応援に駆けつけてくれるイベントです。やはりチアに応援されると、いつも以上に張り切っちゃいますね。笑笑
早慶の友情は、一生もの!
2018年総決算
天皇杯
一回戦、二回戦と勝ち上がり、準々決勝では、終始リードをしていましたが、終盤で、逆転された挙句、右膝を壊されました。試合中にパキッと音がして、ラスト1分くらいは、まともに動けてませんでした。脚を取られた結果が、このような結果になりました。一年かけてこの大会で優勝する準備をしていました。今年こそは、と出場しようとしていたインカレを怪我で断念したり、97kg級に出場したり、納得のいく事が何一つなかった総決算だった分、この大会で勝って良い一年の締めくくりとしたかったのですが、思い通りには、いきませんでした。
リフレッシュのために
年越し家族旅行
*海外編は、後日掲載させていただきます!
ついに大人の仲間入り
成人式
北区にある稲付中学校に通っていたこともあり、成人式は、北区の北とぴあへ行きました!
中学のクラスメイトとの再会は、止まった時間が動き出した感覚でした。みちょぱもいたよ!
年が明け、成人式も終えましたが、天皇杯の膝の怪我は未だに練習に支障が出ており、1月はマットにすら上がる事ができませんでした。試合が直近でない分、焦らず直す予定でしたが、回復も早く2月に入り、少しずつレスリングができるようになりました。
人生最悪な日
2月9日たくさんの高校生が出稽古に来ていました。怪我の具合から高校生くらいがちょうど良い相手だと思っていました。自分より大きい相手を避けながら、お願いしにくる高校生の相手をしていました。20分ほど、マットに上がりっぱなしで、休みなく相手をしていたら、100kg近くある子がお願いします。と来たので、動けているし、大丈夫だろうと思い、相手をしました。投げ技を仕掛けようとした際、マットに脚が引っかかり、膝が逝ってはいけない方向へ行き、そこに100kg近い相手の体重が乗っかりました。
「グキッ」
格闘アニメなどで、関節が壊れるような事が実際に聞こえました。膝を何度も怪我している分、これは手術レベルの大怪我だと、すぐにわかりました。痛みに耐えきれず、叫びまくってた気がします。トイストーリーのウッディの脚のように曲がっているままだと思って脚を見たら、真っ直ぐに脚が付いていました。おそらく経験した方ならわかると思います。笑
そして、救急車で運ばれ、急患へ通されました。あまり良い思い出のない病院に着くと、レントゲンだけ撮られ、異常はないよと言われました。俗に言うヤブ医者ですね。笑
絶対そんな事ないという自信があったので、すぐに国立スポーツ科学センターのクリニックの予約を取りました。
案の定の結果に
左膝前十字靭帯断裂
左膝外側半月板損傷
左膝内即側副靱帯損傷
この3つを一気に損傷することを、アンラッキートライアングルというそうです。どこまでもついてないです。本来の実力まで復帰するには、1年から1年半、長い人で2年もの時間を必要とする大怪我でした。腫れがひかないと手術ができない、という事だったので、手術は3月になりました。
手術が終わると、膝が曲がらない!!?
術後は、筋肉?が硬直しており、まずは膝を曲げるところからのリハビリが始まりました。正直、これレスリングできるようになるの?っていうのが率直な感想でした。
リハビリに明け暮れる毎日、同じことの繰り返しほど、飽き飽きしていましますよね。
東京オリンピックの予選に出場する日本代表選考会は、大学3年の6月の明治杯でした。この時点で、あっけなく僕にとっての東京オリンピックは、終わりました。
周りには、元気に振る舞い、いかにも元気だぞ!と演じていましたが、毎日毎日悔しさとストレスに追われていました。
たくさんの方が、声をかけてくれましたが、結局は他人事。レスリングできない奴の気持ちなんか、できなくならない分からないだろ。とばかり思ってました。本当にしんどかった。
レスリングできるのは、いつになるんだろう、そう思いながら、私の大学2年生が終わりました。正直、レスリングを考えなくていいなら、どれほど楽なのか、そう思ってましたが、考えずにはいられませんでした。
まさしくどん底。泥沼でした。
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