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「質の高い」教育を「みんなに」

「僕はマラソンが嫌いだ。だって、1位の人しか褒められない。2位の人も、ほかの人だって、同じくらい頑張ったはずなのに……」



 SDGsは国連で採択された「世界基準の目標」らしい。
 偉そうに。「誰ひとり取り残さない」だって? 神様気取りも甚だしい。エアコンが効いた部屋で知ったようなことを言う。

 ああ、だから「特別支援教育をやめろ」なんて無責任なことが言えるというわけだ。見せかけの平等、ありがたい話だ。まったく。(9月9日に国連が指摘した内容を受けて)

 昨今、「発達障害」という言葉だけは、世に浸透してきたように思う。ADHD、ASD、詳しく知らずとも聞いたことがある人は多いはずだ。
 その中でも、学習障害(LD)と診断された子どもたち。彼らに対する世間の理解は、差別的なほど浅い

 放課後等デイサービス(障害のある子どもの療育支援施設)の児童指導員として働く心理士、それが私だ。

 記事の頭「僕はマラソンが嫌いだ」という話は、私が担当していた「漢字が書けない少年」の言葉である。
 この場合「漢字が書けない」というのは「漢字を覚えていない」という意味ではない。不思議だが「漢字を読むこと」に苦労はしていないのだ。

 漢字が書けない理由を「努力不足」で説明するのは、無知な大人の身勝手だ。この少年は、努力不足どころか、他人の何倍も努力していた。
 何十回、何百回、学習ノートが真っ黒に、グシャグシャになるまで漢字の練習をした。それでも無駄だった、覚えられなかったと少年は話した。

 少年の言葉を、皆はどう受け止めるだろうか。

 どれほど練習しても、漢字が書けない、認められない無力感。「努力が無駄だった」なんて、子どもに言わせていいのか?

 無駄なんてことあるか!

 その努力は、目の前の大人に火を点けた。無駄ではない。無駄にさせるものか。努力して、努力して、それが叶わない? だったら、既存の教育の方が間違っているんだ。足りていないんだ。

 子どもが頑張っているんだぞ。
 じゃあ、大人はそれ以上に頑張るべきだろうが!


 論文を読み漁れば、参考になる研究がたくさんあった。
 特に、LDとワーキングメモリに関する研究は突破口になってくれた。
 それからしばらく。

「まあ、ちょっとは覚えられたかな」

 学習机に向かいながら、あまのじゃくな感じで少年は笑った。



 今一度、問う。
 質の高い教育ってなんだ? みんなって誰のことだ?

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