見出し画像

クソデカ体積の水を見に

 書店にてスズキナオさんのエッセイの冒頭だけを少し立ち読みした。確か「遅く起きた日曜日に、膨大な体積の水を見に〜」みたいなことが書いてあったと思う。気になる出だしだったから今度買ってちゃんと読んでみよう。
 膨大な体積の水、というと一般的にそれは池であったり湖であったりダムであったり水の溜まっている場所を指し、それの最たるものはご存知の「海」ということになる。膨大な体積の水、という呼称は少し長いので、私はこれを『クソデカ水』と呼ぶことにした。海を見に行こう!ではなく、クソデカ水を見に行こう!と言うことで日常が少しポップになるような気がする。
 私もふとクソデカ水が見たくなった。

-

 JR神戸線の須磨駅という駅は、切り立った山とすぐそこに迫る海とに挟まれた抜群のロケーションだ。1つ前の駅の塩屋駅を通過し、須磨駅までの区間は海の真横を走行する。天気のいい日は、澄み渡った空と濃い青が水平線あたりで溶け合う光景を見ることができる。私も毎日ここを電車で通過しているが、未だにここの景色に飽きることがない。

 神戸の片隅に生まれた私は、幼い頃から海を、いや"クソデカ水"を見に行くとなれば、朝霧の大蔵海岸や明石海峡大橋のふもとの舞子浜に行くことが多かった。
 須磨の砂浜はそれらよりさらに東にあり、気軽に行くには少し足が重い距離だった。自転車が交通手段の全てだった幼い頃の私にとって、明石海峡大橋の向こう側に行くということは、もうそれは冒険であり、ある種の小旅行に近いものだった。さらに東進し、垂水を通過して塩屋まで来ると、海と山の距離が最も近くなり、いよいよひとつの"山場"を越えたな、という実感が湧いたものだ。

 電車というのは本当にスゴい。あのときの私が行けなかった場所まで、なんとも容易く。

 特に用もなかったが、今日はなんとなく須磨駅で降りてみた。塩屋方面からやってくると、進行方向右側に広がっていた海が少し遠ざかり、冬の砂浜が見えてくる頃に駅のホームへと下りた。線路別複々線の構造のおかげで、高速で通過していく新快速を左手にゆったり眺めながら、駅の南に広がるクソデカ水も右手に眺められる。風もない穏やかな気候だったが、砂浜に人はいなかった。

-

 クソデカ体積の水を眺める時間、眺めていられる余裕、眺めに行こうと思う心づもり、それらって結構大事だと思う。人はみな、クソデカ水を前にすることで、心の海に凪を作り、そこに静かに帆を張るのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?