学校は座っていないといけない?

 教育実習は大学の附属小学校に行った。
 その時、授業中にゴミを捨てに歩く子がいて、びっくりした。でも、誰も何も言わず、捨てた子も席に戻って、また授業に参加したのを見て、すごくいいなと思った。30年以上たった今も、その気持ちはもち続けている。
 
 思い起こすと、中学生のときの担任の国語の先生は少し変わっていた。授業中に、相談してよい時間があって、私はいつも仲良しの友達とおしゃべり半分相談半分で過ごしていた。でも、その数分立ち歩くことでリフレッシュする感覚はあった。 

ずっと座っているのがいいこととは思わない

 だから、45分ずっと座っているのがいいと思ってはいない。低学年だったら、特に、授業時間の中で、立ったり座ったりを多く入れて、児童同士で行う活動も入れて、動きのある授業を心がけてきた。
 でも、それも限度があって、そのクラスにおけるルールがないと、だんだん誰もが好き勝手に立ち歩くようになる。そうすると、指示が通らなくなる。主張するタイプの子は分からないことを言えるからいいけど、大人しいタイプの子は遠慮して分からないことをそのままにするようになる。一斉に指示が通らないと、何度も同じ話をすることになり、子どもたちに任せられる活動時間が減っていき、ますます一斉指導の時間が増えるという悪循環が始まる。
 クラスごとの限度は、教師と子供とで作っていくけど、常にちょうど良い度合いをキープするためには日々考えて対応していく必要がある。労力がいる。だから、座って聞くもの(どんなにつまらなくても、心はここになくても)と決めてしまう方が楽。

継続性の問題

 昨年、担任していた子供たちが、2年生になって、「大変な子」として、生活指導の話し合いなどに挙がってくる。私の中では、大変と思っていなかった子も。
 確かに、ずっと座っていられない子もいた。ADHDといった診断は受けていなくても、その傾向があるかもなとは思っていた。でも、タブレットで一人一人が操作する活動を多くしたり、動きを入れたりすることで、普通にクラスメートとしてみんなと仲良く過ごせていた。
 今、聞く姿は、みんなを邪魔するとか、ずっと立ち歩いてるとか。周りの子も不適応の状況を時々報告してくれる。本人たちに会っても、居場所がなさそうな自信のない目になっている。高学年だったら、反抗的になっていくところだ。

 いろんな子がいる。「まず、座れ。」が成り立つクラスもある。そういうクラスは、何事もスムーズなことも多い。でも、それが出来ないタイプが多い場合、教師側がやり方を変えることで、少なくとも潰さずに済むのだと思っている。かといって、次の年に続かないなら、やはり違うのか?

人数の問題

 私自身は、今年は40人近い人数のクラスの担任になった。体も大きいから、教室は、満員である。昨年の1、5倍以上の人数を担任すると、自由度をどの程度にするかは、人数によるところがあると改めて思う。25人くらいの学級ならOKしてあげられたことが、40人近い場合はOKできない。ちょっとした立ち歩きも、教室いっぱいの机と椅子の間では目立つし、動く子によって、黒板が見えないということも直ぐ起こる。
 しかしながら、配慮を要する子が元々多いクラスだけに、「まず座れ」をやっていたら、何も進まない。待っている間に、別の子が動き出す、喋り出す。日々、悩みながら、みんなが納得できるラインを探っている。

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