二年次研究:ハウルの動く城の家族形成(2)
こんにちは!
前回は「はじめに」「先行研究1:形式上の家族」「シーン分析」の三つをまとめて投稿しました。たくさん反応をいただいて本当に嬉しいです、ありがとうございます…!
今回は、「キャラクターの生い立ち分析」「先行研究2:認識上の家族」について投稿していこうと思います◎
キャラクターめちゃ多いので前回よりボリューム多めとなってしまうのですが、どうぞお付き合いください…!
1.各キャラクターの生い立ち分析
まず、各キャラクターの生い立ちや元々の家族構成を調査しました。
調査にあたっては映画を基軸としていますが、原作と映画で設定が同じキャラクターの場合に限り原作での情報も組み込んで分析しています!
原作小説は「魔法使いハウルと火の悪魔」(1997年 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著)です。
⑴ソフィー(ソフィー・ハッター 映画設定17歳)
彼女は今作における主人公で、呪いにかけられ90歳のおばあちゃんにさせられてしまう帽子屋の長女です。彼女の生い立ち分析については、大きく2つにまとめられます。
①母子家庭の長女である
映画冒頭で、彼女は家業の帽子屋について「お父さんが大事にしていたお店だし」と父親のことを過去形で話す描写があります。
原作においても父親を亡くしたとの言及があり(原作では母・ファニーは義母となります)、映画中盤では母・ファニーの再婚報告にすんなりと驚く描写も。
その他映画で父親の描写がないので、以上の情報をもとにソフィーは母子家庭の長女であると分析しました。
※研究とは関係ありませんが、ジブリ好きの方へ…原作ではソフィーには「マーサ」という三女(末の妹)がいるんです。ハウルに口説かれる設定なのですが、映画冒頭、実は「マーサ」がセリフとして出ているのをご存じですか?ソフィーがあてもなく山へ入る際も送ってくれた農家の人が「中折れ谷に末の妹がいるらしい」と言うのですが、原作ではマーサは”中折れ谷”というところで魔法修行しています…ぜひまた観返してみてください!!!
②家族は別居しており共住していない
原作冒頭で、父親を亡くし経済的に困窮したソフィー達は、生活していくために義母のファニーによりそれぞれ進路を決定されています。
その際ソフィーは長女なので帽子屋を継ぎ、妹のレティ―は「チェザーリ」という店に奉公に出されるんです。
この「チェザーリ」という店もそこで働く妹のレティ―も映画に登場します。
さらにソフィーが映画序盤、妹に会いにいくためにわざわざチェザーリまで足を運んでいるシーンがあります(映画5分地点)。
この姉妹がいっしょの家で暮らしている描写もないのですが、いっしょに住んでいるのならば店まで会いに行く必要はないですよね。
また、母・ファニーが家出したソフィーに共住提案を持ちかける際には「お金持ちの人と再婚したからまたみんなで暮らせる」と発言しています。
これらをもとに、ソフィー達家族は経済的困窮を理由に共住していなかったと分析しました。
⑵ハウル(ハウエル・ジェンキンス 27歳)
かっこええ〜〜〜〜!!!
失礼致しました。
ソフィーと恋仲となる魔法使い・ハウルの生い立ちについては、映画中全く言及がありません(映画1時間22分地点で秘密の小屋をソフィーに紹介する際に”叔父”との交流は匂わせています)。
よってハウルの生い立ちや家族構成は原作情報で分析を行いました。
①姉家族が存在する
ハウルには身内として姉家族がいるようです。
姉のミーガン、義兄のガレス、甥のニール、姪のマリです。
彼らは異国の町はずれに暮らしていて、ハウルがマリにかけた「元気してた?ばっちしかい?(p.146)」という言葉からもそこまでの交流はないようです。
姉のミーガンとはそりが合わず仲良くはありません。ミーガン曰く(p.151)、ハウルは大学まで進学し良い教育を受けたにも関わらず、ラグビー部の悪い仲間とつるみ、ろくな仕事に就職もせず、恥をかかせてばかりの青年だったそう。
ちなみに交流の薄さについてはハウルが泣く泣く…という訳ではなく、姉・ミーガンと良好な関係を保つため、あえて適度な距離感を保っているのかなと分析しています。
学生時代は家に仲間を連れこんでいたと言及があるので、卒業後は1人暮らしをしていたものと思われます。
両親との関係は原作でも一切言及がありませんでした。
②姉と仲が悪いがハウルは気にかけてはいる
姉からすごい言われようなハウルですが、それでも姉を嫌っているわけではありません。
原作にて(p.198)魔法によりハウルの自室窓から姉家族の庭の様子を見守っている描写があります。
その理由ですが、荒れ地の魔女に姉家族が襲撃された際「いちばん手薄なところに目を付けられた」(p.273)とのセリフがあるため、襲撃に備えていた訳ではないようです。
そう考えると、単純に微笑ましく、姪っ子達の様子を見守っていたのだろうかと思っています。
襲撃の直後、単身乗り込み魔法そっちのけで身を挺して姉家族を守っている描写を見ても、そこに家族愛があることは確認できます。
⑶マルクル(マイケル・フィッシャー)
彼はハウルの魔法弟子の少年です。彼の生い立ちも映画では描写がないため原作から情報を集めました。
彼は映画でも登場する、ポートヘイヴンという港町出身です。幼くして母を病気で亡くし、父は嵐に遭い(原作名のフィッシャーを見ても、彼の父親は漁師だったのでしょう)、みなしごとなってしまいます。
ながらく他人の家の軒先や船を転々としていましたが、どこへ行っても追い払われる日々。そこで彼は町に魔法使いの家があることを思い出し、「魔法使いの家の軒先ならば誰も近寄ってこないのでは?」と考えました。
これがハウルとマルクルの出会いです。二晩ハウルの家の軒先で過ごしたところたまたまハウルがでてきて居候を始めたそうです。
半年経ってもハウルが出ていけと言わないので、せめて役に立とうと思い弟子入りした、というのがマルクルの生い立ちです。
(前回でのシーン分析でマルクルがソフィーに「行かないで!ここにいて」と不安を吐露するシーンを記載しましたが、原作での生い立ちを知るとその言葉もまた違った聞こえ方になりますね…)
⑷カルシファー
カルシファーはハウルと契約を結んだ火の悪魔です。
家族なんてものは元からないキャラクターだったので、生い立ちと経緯を兼ねてご紹介します。
彼は元々地上に流れ落ちた瞬間にその命が途絶えてしまう、孤独な流れ星の精霊でした。
流れ落ちる間際に幼少期のハウルが両手で受け止め、契約を交わしました。(映画1時間46分地点)
契約内容は、「ハウルの大切なもの(=心臓、心)を渡す代わりにカルシファーの魔力を得る」というもの。これによりカルシファーは人間と同じように『生きる』ということが可能になった、というわけですね。
このような過程を経て、カルシファーはハウルと互恵関係、いわゆるwin-winの関係になりました。
ちなみに、カルシファーはずっとソフィーに「自分とハウルの契約内容を見破ってほしい」と持ち掛けています。暖炉に縛り付けられる日々に少々うんざりしていたようで、自由を渇望していたことがよく分かりますよね。
しかし、ラストシーンで(映画1時間51分地点)契約解消により自由を手に入れたカルシファーは(「生きてる!おいら、自由だー!」)、その後自分の意志でみんなのもとへ帰ってきます。
「おいら、みんなと一緒にいたいんだ。雨も降りそうだしさ」(映画1時間54分地点)
この発言を見るに、自由を手に入れたもののみんなとの共同生活までは手放したくなかったことが汲み取れます。
カルシファーも自分の意志で共同生活を選択していたことが確認できますね。
⑸原作と映画で設定が異なるキャラクター
原作と映画を通し研究する中で、原作と映画でキャラ設定が異なる登場人物がいることを発見しました。
私はこの気づきを、スタジオジブリ側がなんらかの意図をもってキャラ変更したと捉えることにしました。
⑸-① 荒れ地の魔女
彼女はソフィーに呪いをかけた魔女で、ハウルの敵でもありました。映画では中盤、マダム=サリマンによって魔力を奪われ素の年齢に戻され、その後ソフィー達に介護されつついっしょに暮らすことになります(下図)。
荒れ地の魔女ですが、原作では終始ハウル達の敵であり、魔力を奪われおばあちゃんになったり和解したり、もちろん共同生活をしたり介護を受けたりという展開は一切ありません。
この調査結果と「スタジオジブリ側が何らかの意図をもって設定変更している」という仮定をすり合わせ、
荒れ地の魔女に「おばあちゃん枠」を担わせ「介護」というケアの要素を加えることにより、家族感の演出を強めようとしたのではないか?と分析しました。
近年「ケアの社会化」という点で「介護は家族が行うべきか?社会で担うべきか?」ということが議論されていますが、当時の家族観背景を反映させているという見方もできるかもしれませんね。
⑸-② ヒン
ソフィーに抱きかかえられているくたびれた顔の犬がヒンです。
ヒンはマダム=サリマンの付き犬で、魔法によって自分の視界を客観的にサリマンに伝達することができます。
王宮から脱出するソフィー達に自ら付いてきて(映画1時間6分地点)以降、城のみんなに可愛がられながら共同生活に加わります。加入時期としては荒れ地の魔女と同期ですね。笑
当初はソフィー達を監視する目的でついてきたのかもしれませんが、映画ラストシーンで(映画1時間53分地点)でサリマンに今更連絡をよこして…と言われているシーンを見ても、サリマンに伝達することはなかったようです。
さて、ヒンは原作では荒れ地の魔女に呪われた「犬人間」として似たようなポジションに置かれています。もとは人間なので最終的には犬ではなくなります。
しかしヒンを「犬」として描くことで、スタジオジブリ側は終始ヒンに犬であることを貫かせることに成功しています。
この点を踏まえ、私はヒンを犬として描くことにより終始「ペット枠」を担わせ、家族感の強調を図ったのではないか?と考えました。
ヒンの「ペット枠」に関しては、後ほどの先行研究でまたお話します。
2.先行研究2:認識上の家族
さて、前回投稿した「先行研究1」では、日本において「家族」というものが書面的に/形式的にどのように定義されているのか?ということを紹介しました。
今回は「私たちはどのように家族を定義しているのか?」という、認識面においての定義について先行研究を紹介します!
2-① 主観的家族
1986年、山田昌弘氏が日本の近代家族を「①夫婦集団」「②親族システムを成員基準とする集団」「③主観的家族像」の三つにレベル分けした上で、「③主観的家族」について以下のように述べています。
『近代社会においては. 時代,地域,個人によっても「家族」と意識する範囲は,異なる。そこには,二つのメカニズムが同時に作用している。』(山田 1986)
二つのメカニズム、そのひとつを「親族のみを成員基準とする諸活動の及ぶ範囲を家族と見なすというメカニズム」と述べています。
この「親族のみを成員基準とする諸活動」というのは、子育て・情緒的交流・共住等のような活動だと述べられています。
さらにもうひとつのメカニズムは、「情緒的動機づけが及ぶ範囲を家族と見なすというメカニズム」と述べています。
この「情緒的動機付け」に関しては、対価が支払われない、つまり無償で行われる活動のことであると述べられています。
山田氏はこの二つのメカニズムが作用したとき、我々は非親族のことでも「家族である」と認識するのではないか?と論じています。
ちなみに、山田氏はこの論旨の中で「ペット」を主観的家族の例に挙げています。
ペットが家族だという意識が生じるのは、「共住していること」「餌付けが情緒的動機づけによって行われているということ」のふたつの作用によってである、と述べられています。
私はこの主張を採用し、ハウル達は「主観的家族」なのではないかと考えました。
2-②「親族のみを成員基準とする諸活動」について
一つ目のメカニズム「親族のみを成員基準とする諸活動」の中に、「共住」が挙げられていますよね。
ハウル達は共住を行ってはいるものの、共住は「親族のみを成員基準とする…」とされているため、ハウル達は主観的家族には該当しないのではないか?との指摘があるかもしれません。
(例のペットも親族ではないじゃないか!という点でカバー出来そうではありますが…)
しかし、2013年に梶井祥子氏がまとめた『家族の「多様化」と規範意識の変容』の中で、1988年に山田昌弘氏によって行われた「主観的家族」についての分析が以下のようにまとめています。
※思いのほか長いので読んでも読まなくても大丈夫です、直後に要旨をまとめています
『山田のまとめによれば,家族として意識する基準は①血縁,②家族としてするべき活動を一緒にしている,③情緒的に愛着を感じる,の3点である。人々はこの基準を選択的に使用することで,自らの家族関係を形成しているらしいということが指摘されている。』(梶井2013)
少し引用が長くなってしまいました。
山田氏は、「①血縁」「②家族としてするべき活動を一緒にしている」「③情緒的に愛情を感じる」という3点を選択的に用いることで、私たちは家族関係を形成していると論じているのです。
私はこの「②家族としてするべき活動を一緒にしている」という基準が、ハウル達の主観的家族に該当するのではないか?と考えました。
家族としてするべき活動、つまり本来「親族のみを成員基準とする諸活動」、つまり「共住」、という風に言い換えていくことができるというわけですね。
さて、今回の投稿はこの辺にしておきます。
ここからさらに分析し一気に結論へ向かうのですが、ボリュームを考慮した結果、分析情報だけを残していくという大変もやもやする投稿になってしまいました。笑
私の方としても大変もやもやするので、明日にでも最後の投稿をします!!!!
次回の投稿では『彼らが「家族」に求めた共通要素とは何か?』という分析まとめと結論の部分を、ふたつの論点で考えていきます。
もう今回の投稿で私が出した結論がバレていそうですが、「ハウルやソフィー達が城で共同生活を始める前」にも着目して分析したので、きっと面白い分析なんじゃないかなと思います!笑
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
次回の投稿もよろしくお願い致します!では◎
画像引用先:スタジオジブリ公式HPより
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