自粛の中で気づいたこと
僕たちが1日に得る情報量は、祖父母たちの一年分に相当するという話を聞きました。
詳しい数字はわかりませんが、そうだろうな、という実感はあります。
情報量が増えた世界では、人間は忘れっぽくなります。
例えば、年末に1月くらいの出来事をきくと「えー、あれって今年の話だっけー!」となるのはよくある話。
それどころか、カルロス・ゴーンが追起訴され、国外逃亡したのは今年の1月の話です。
もはや遠い記憶。
しかし、これは人間が忘れっぽくなっているわけではありません。
多すぎる情報量が過去の記憶を押し流してしまっているのです。
人間の脳はこれほどの情報量を処理するようにできているわけではないので、外から見ると忘れっぽくなったように見えるだけです。
そんな情報過多の世界に生きているとどうなるか。
人間は、ますます短い時間の中に生きることになります。
ビジネスもゲームもコミュニケーションも「今この時」だけを意識し、同時性、即時性を重視する様になります。
SNSはまさにその象徴です。
「どうやって今この瞬間ウケる話題をつくるか」が常に考えられています。
しかし、「正しさ」とはデリダが言う通り、「いかに時間から抜け出せるか」ということによって確かめられます。
「時間が経っても変わらないもの」の中に「正しさ」は宿るのです。
だから僕たちは即時性から抜け出し、「時間が経っても変わらないもの」へと到達しなければいけません。
「今この瞬間ウケる話題」から離れること、これが人間性を取り戻すために必要なことです。
また、情報過多は刺激過多でもあります。
ネットに限らず、僕たちの生活はあらゆる情報であふれかえり、常に僕たちを刺激します。
刺激が多すぎると、刺激がなくなった時に禁断症状を引き起こします。
全国を講演してまわるある知り合いが、「この自粛で講師が出来なくなり、家にいたのだが、エネルギーの行き場がなくておかしくなりそうだった」という話をしていました。
アドレナリン中毒者にありがちなことですが、この気持ちは僕もすごくわかります。
家にずっといると、刺激を求めてウズウズしてきます。
しかし同時に、(もし僕たちは無人島に行ったらどうなるんだろう?)とも思いました。
無人島には今の僕たちの生活のような刺激を与えてくれるものは何もありません。
カリスマ講師のように、大勢に講演して拍手喝采を浴びるような、そんな刺激的な経験も存在しません。
現代にある「刺激欠如」の世界です。
きっと、すごく退屈して、講師のいう通り「おかしく」なってしまうのかもしれません。
しかし、考えてみればもともと人間はそういった「刺激欠如」の世界に生きていたはずです。
原始の生活には面白い映画も、感動するような小説も、刺激的な経験もありません。
今の僕たちから見れば「何の刺激もない」退屈な生活に見えます。
しかし、人はそういった時代を何百万年も生きてきたわけです。
僕はそれを心から不思議に思います。
何をモチベーションに生きていたのだろうかと率直に思います。
「それはとても現代的な見方で当時の人たちはそんなこと考えていない」と言われそうですが、そうだとしてもこの問題は考える価値があります。
なぜなら、何百万年も支えてきたモチベーションは僕たちにも当然共通しているはずで、その長い時間を耐え抜いたモチベーションに「正しさ」は宿るからです。
僕たちの生活は賑々しい情報に飾られて見えにくくなっていますが、刺激欠如の中にこそ、僕たちが大切にしなければいけない「変わらないもの」があるのではないかと思っています。
今回の自粛は、そんなことを気づかせてくれる貴重な時間だったと思います。
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