働かない女、たまちゃん

〜初めに〜 

嗚呼、憧れの、たまちゃん

息が苦しい……頭重い。足も思う様に動かないし車の走行音が耳障り……後ろから人が歩いてくるのも、怖い。

パニック障害の症状にぶち当たる朝。
昨日まで何も考えず歩けた道でも、一旦身体が警戒状態になってしまうと、自分を取り巻く街の風景が私の敵と化す。辛うじて駅に到着し、満員電車に乗った途端に止まらない過呼吸と動悸。顔面がくしゃくしゃになる程強い力で目を瞑り耳を押さえつけて堪える。
「仕事行かな生活出来ないーーーあーーーでも死ぬ!!あーーー死ぬ!!死ぬ!辛い!無理!胃が痛い!!無理無理無理!!!」

どしんと沈む胃を支えていると、途中駅でぶあっと人が下車する。私も電車の外に流れ出て、はあはあと息を荒げる。足元はふらついて、乗車することを拒否している。もう、辛いよお……。

そんな時、ふと私は彼女の存在を脳裏に思い出す。

「ああ。私にもたまちゃんの思考回路があれば良いのに。」と。

働かない女、たまちゃん。

たまちゃんは私が大学生の時、1年間だけ所属していた広告研究部の同期だ。同期といっても、年は私の3歳上。当時21歳。岡山出身で都内にある某美大を中退後、2006年、明大法学部に入学した。背は低めで猫背。セミロングの黒髪に眼鏡姿。TシャツにGパンと簡単な服装であり、お世辞にも社交的とは言い難いオーラを放っていた。美大中退の理由は、自分に合わない環境で鬱になりかけたからだといっていた。

一度鬱になりかけたたまちゃんは、その反省を生かしてか、とにかく働かない。働かないというか、嫌なことはしない。
学生時代もバイトというバイトはほぼしておらず、実家からの仕送りで生活していた。1度最寄り駅千歳烏山のドトールコーヒーでバイトを始めたそうだが、「カフェモカとか注文されると手間多くてだるい」とかいって、いつのまにか辞めていた。
また、バイトだけではなく、就活もロクにしていた記憶がない。
不幸な事に、我々2010年卒の世代は、リーマンショックの影響がだだ被りした事が大きく作用し、就活が大難航した。ちなみに私はこの時に就活がうまく行かず、先述のパニック障害症状を初めて発症。「このままだと私は死ぬ」と思い詰め、潰れた。
一方、たまちゃんは時代の流れを言い訳にし「続けたら鬱になる」などとのたまい数社受けて辞めた。当時たまちゃんはサークル同期のタナカと既に2年間付き合っていた為、彼が大手財閥系企業に内定を決めたことで、生涯こいつに世話になろうと企んでいたんだろう。

卒業後もたまちゃんは、基本的に仕送りで同じ家に住み続け、気まぐれに仕事を始めては半年以内に辞めた。
のちにたまちゃんとタナカは門前仲町のマンションで同棲を始め、2014年7月に結婚。たまちゃん30歳直前の事だった。「もう30歳、タイムリミット」という主張と実家からの圧力も利用し、2歳年下、当時28歳のタナカを見事捩じ伏せた末、彼女は「配偶者控除」の恩恵に預かれる、「専業主婦」という職を得た。

配偶者ニート、たまちゃん

しかし、彼女はここでも「働かない」。「専業主婦」の仕事、家事をしないのだ。
ご存知の通り「配偶者控除」とは、外でバリバリ稼ぐ夫の衣食住を全面的にバックアップする妻に対して、税制上の特典を与える制度だが、たまちゃんはとにかく働かない。どれだけ働かないかというと、「炊飯器のボタン押すのさえ面倒」とおっしゃる程、働かない。
最早これでは「専業主婦」ではなく、配偶者控除の恩恵を得た、「配偶者ニート」だ。

一方のタナカは、営業という職種柄、残業や嫌な飲み会が立て続く日々。日本の典型的なサラリーマン業をヘトヘトになりながらも、時にはでかい声で愚痴を叩きながらも、立派にこなしていた。たまちゃんにイライラをぶつける事もなかったと聞くが、唯一覚えているのは、疲弊した身体で眠るタナカの横で、たまちゃんがiPhoneで「ラブライブ!」をやり続けた話か。これには流石のタナカも「うるせえよ!!」とキレた。その後たまちゃんは1人門前仲町のマックに移動し、そこで「ラブライブ!」を夜通しやり続けたという。

ただ、この夫婦はとにかく仲が良いし、当然タナカもたまちゃんの何もしなさを知った上で結婚している。
そうでなければ一体どうなっているのか、ちょっと想像がつかない。

ロシアVSたまちゃん

そんな順風満帆なタナカ夫妻にも、ある日、転機が訪れる。
彼女らが結婚してから2年後、2016年の秋、タナカに2年間のロシア駐在辞令が言い渡されたのだ。
我々は何かに託けて飲み会を開く人種の為、この日も神保町の居酒屋「酔の助」の座敷席を貸切って壮行会が執り行われた。なんと総勢40人位集まり、タナカの人望の厚さに感服した。

私も「2人でロシア行くんすねえ」と言いながら周りの先輩とビールを酌み交わしていたのだが、どうやらそうではないらしい。
なんとたまちゃんは日本に残るというのだ。
もう一度言うが、たまちゃんは「配偶者ニート」だ。更に子供もいなければ妊娠の可能性もない。これに驚愕した我々は「えっ、マジで?!」と声を上げる。

「だってタナカもたまちゃんも寂しいでしょ?!ずっと一緒に住んでたのに?!」とか
「2年海外に行けるなんて羨ましい!」とか
「海外駐在すればハウスキーパーがつくからたまちゃんは家事をやらないで良いのでは?」
などと各々思い思いに口にするも、たまちゃんの答えは、

「嫌だよ。だってロシアだもん。寒いし治安悪いもん。」

……。以上だ。

これには「そだよね。ロシア、寒いし怖いよね。」と力なく答えて各々、グラスに残ったビールを啜ることしか出来なかった。

結局、たまちゃん1人の為に家賃の高い門前仲町の1LDKは無駄だと判断したタナカは、府中に部屋を借り直す。
タナカとしては働かないたまちゃんを日本に残す方がお金が掛かると言いたいだろうに、たまちゃんの為、最低限の生活費と貯金を工面しようとしていた。それにも関わらずたまちゃんは「やだ。府中なんて田舎行きたくない、門仲にいたい。」とタナカの横で文句を言っていた事が忘れられない。
もちろん、そんなたまちゃんが1人で日本に残る事を我々も心配した。しかし「家に行くよ」とか「遊びに誘うよ」となどとたまちゃんに声をかけたところで、「めんどくさい」と一刀両断されるのがオチだった。

パートタイマー、たまちゃん

そんな飲み会から1年2か月後。
2017年11月末、遂にあのたまちゃんが働くという知らせが飛び込んでくる。
これまた同期で、誰に対しても面倒見がいい堀之内が、たまちゃんに仕事を紹介したらしい。
堀之内は神奈川県内の社会福祉法人に勤め、保育園のバックオフィス業務をしている。この度、人出が足らないから新しい人を探していたそうだ。
そこで「たまちゃんどお?(笑)」と(笑)程度で声を掛けたら意外にも食い付きがよく、あれよあれよと面接が進み、同じ法人で働くことになった。
ただ、たまちゃんは扶養控除内での勤務だという。私は、募集もそういう条件だったんだろうと勝手に思っていた。

1か月ほど前、4月の晴れた昼下がりの日曜日。私は堀之内と表参道の猿田彦珈琲で1時間程お茶をした。
「たまちゃんちゃんと働いてる?」と聞いたら「働いてるよ!働き出してタナカも喜んでるっぽい!でも控除内で月に8万円分しかシフト入れないから、無理矢理フルタイムの人がやる分の仕事振ってるけど……。」と返ってきた。
本来堀之内が探していたのはフルタイムで働ける人だったが、たまちゃんは扶養控除内での勤務を希望したそうだ。
堀之内はたまちゃんが出勤する日はたまちゃんが所属する園に出向き、仕事の指示と優先順位をつける。そしてたまちゃんが終わらなかった仕事をフォローしてから、自分の所属する園に行って自分の仕事をするそうだ。
その話を聞いた途端、私はアイスカフェラテを啜る口を止め、「マジで?年度がわり自分の仕事でさえ忙しい中、たまちゃんのフォローもしてたの?」と聞いた。堀之内は渋い顔をして
「うん……まぁしょうがないよね。だって、たまちゃん、私に
『私が週5も働いたら鬱になって突然休んで人に迷惑掛けるから、週3が限界』

って言ってたから……」
と答え、アイスコーヒーを少し口にした。

……凄い。堀之内がたまちゃんに声を掛けた責任があるとはいえ、凄い。いや、でもそこに躊躇いもなく甘えられるたまちゃんが1番凄い。
その思考回路が羨ましい。
いや、凄いとか羨ましいとかの問題ではない。「行かなきゃ死ぬ、働かないと生活できない、扶養控除内とか甘えた事言えない!」と自分の心に鞭を打ち、車内で過呼吸に見舞われる私にこそ、たまちゃんの思考回路が必要なのだ。
うん、辛くなったら休もう、身体が潰れたら辞めよう、いつ辞めさせられてもいいや別に、と思いながら働こう。そもそも人一倍ポンコツな身体を動かしているだけで賞賛されてもいいんだ。

余談

〜タイに行きタイ、たまちゃん〜

今年の秋でタナカは2年間のロシア駐在期間を終えるが、幸か不幸か今東京に彼が戻るポストはないとのこと。
代わりに今度はタイに駐在するかもしれないそうだ。
たまちゃんは「タイかぁ。タイ料理好きだしタイなら行ってもいいかなぁ~」とぼやいていたという。
ちょうどたまちゃんも仕事に慣れてきた所で、タイになんて行ったら、たまちゃんは「配偶者ニート」に逆戻りするだろう。
でも、別に働かなくったって、ただ異国の地で不安だらけのタナカの側にいてあげるだけで、たまちゃんはタナカに対して「妻」としての役割は果たせてるのかもしれない。
だから、うん、やっぱりたまちゃんはタナカの側にいてあげたらいいな。と思った。

※本エッセイは小野美由紀さんの ”書く私”を育てるクリエイティブ・ライティングスクール 2018年5月度の課題文です。

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