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アジアさすらいの日々ー中国編⑩(旅の荷物/次の土地へ)

<前回までの旅>
…中国入国3日目の夜は無錫で過ごした。上海では船で出会った他のバックパッカーと料理や雑技団を堪能し、一人になって訪れた蘇州では電車の中で出会った男の子の家に行くことになった。ただ僕は恐怖心からその場を逃げ出し、無錫行きの電車に乗り込んだ。無錫の夜は静かで、僕はようやく心の底から安心するのだった。

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9月25日(日)

気づくと時間はもう11時過ぎになっていた。9時に一度起きてシャワーを浴びたが、その後ベッドで寝ころびながら昨日のことを思い出しているうちにいつしか2度寝をしてしまったらしい。あの坊主頭で上半身裸のおじさんは既にチェックアウトしたのだろう、もう荷物はなく食べ終わった後のお菓子の包装紙だけがベッドの上に散らかっていた。
僕は鉛のように重くなっていた体をなんとか動かしながら、着終えた服とまだきれいな服を分類してユニクロの袋にそれぞれ詰め、シャワールームに置きっぱなしにしていたシャンプーと歯磨き粉を取りに行ってまた別の袋に入れた。それらを順番にバックパックに入れていき、ウエストポーチの中の貴重品を確認すると、ようやく出発の準備が整った。

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さて、ここでそろそろ旅の持ち物について少し紹介したい。とはいっても実際はほとんど荷物は持って行っていなかった。バックパッカーの流儀として、訪れる土地にあるものはできるだけ現地調達し、最低限の携行品だけで国々を渡り歩く、そんな教えをどこかの本で見かけ、僕はそれを遵守し自分の信条としていたからだ。そのため日焼け止めやサングラスはもちろん、ガイドブックも、ケータイさえも持って行かずに僕は旅に出ていた。
以下に僕の所持していた全ての荷物を記しておく:

バックパックの中:
①衣類(Tシャツ5枚、トランクス5枚、靴下5足、Gパン1枚、パーカー1着)と帽子
②少し厚めのフェイスタオル2枚(バスタオルはかさばるので小さいタオルで代用)
③歯磨き粉&歯ブラシ、シャンプー、石鹸
④スケジュール帳と日記
⑤文庫本5冊(西村京太郎や椎名誠など)と「中国旅の会話帳」的な本
⑥筆記用具
⑦6万円くらいで買ったデジタルカメラ
⑧南京錠とチェーンロック(自転車のタイヤに直接つけるような鍵。バックパック自体を盗まれないようにベッドの足などに固定しておく用。南京錠はバックパックの開け口を閉じるため。)
⑨爪切り、はさみ、鏡

周りから見ると、これから半年近く旅行しようと計画している人の持ち物には見えないくらいの軽量の荷物で、新鑑真号で出会った他のバックパッカーも少し驚くくらいだった(という事はつまり先ほど言及した「バックパッカーは出来るだけ荷物を持たない」流儀は必ずしも正しくないという事を意味するのだけれど)。ちなみにこのバックパックも高校生や大学生が通学時に背負うくらいの一般的なもので(30L程度。下の写真くらいの大きさ)、バックパックというよりはリュックサックといった方が正しいかもしれない。ただ流石にその程度の容量では今後荷物が色々増えてくるだろうと思い、実は上海で20L程度のカバンをもう一つ買っていた。(実際のものではないが、日本から持って行ったバックパックのサイズは下の写真くらい。)

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また、この2つのカバンに加えて僕はGパンの中(Gパンとパンツの間)にウエストポーチを隠し付けていて、その中には貴重品類を入れることにしていた。誰かから聞いたのか本で読んだのか、はたまた自分で考えたのかは覚えていないが、それはひったくりや強盗が起こりやすいアジア旅行において安全に旅をする方法の一つだった。僕は寝る時からシャワーを浴びる時までこのウエストポーチを肌身離さず付けていて(さすがにシャワーを浴びる時は外して近くに置いていたが)、なるべく人前では取り出さないように心がけていたのだが、それというのもこの中にはこの旅における僕の財産が詰まっていたからだ(下の写真のようなウエストポーチを、実際はズボンの下に隠しつけていた)。

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ウエストポーチの中:
①パスポート
②お金(合計35万円分)
 ・トラベラーズチェック…US$2000(=21万円分)
 ・キャッシュ…US$500(=6万円分)、1000元(=1.5万円分)、6.5万円

ちなみにトラベラーズチェックというのは、クレジットカードがあまり普及していなかった(&安全に使えなかった)当時、現金を持つのが不安な旅行者のために作られた小切手である。今となってはほとんど使われる事はないが、これを銀行にもっていけばその土地の通貨に両替ができ、盗まれても再発行ができるというので以前は多くのバックパッカーが所持していた。更に現金での両替よりもレートがいいというメリットがあったのだが、難点としては全ての銀行や両替商でこれを扱っているわけではなく、ミャンマーなど国によっては全然使えないということもあったため、現金とトラベラーズチェックのバランスは常に考えておかなければならなかった。

以上がこの時点で僕が身に着けていた全ての荷物である。この時点では重量感はあまりなかったのだが、旅を続けるにつれてこのかばんは徐々に重くなっていくことになっていった。

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話は部屋に戻る。元々来る予定ではないところから急遽無錫へ来てしまったために、外へ出る準備はしたものの、どこへ行って何をすればいいのかについては全く考えていなかった。前述したが、(僕の中での)バックパッカーの目的は「その土地土地のリアルな生活や文化を感じること」なのだが、具体的に何をすべきかという点については決まってはおらず、出来ることといえばただ街から街へ流れ、偶然出会った人や出来事に関わっていくことだけだった。そしてそんな考えの行きつく先は一つ、「ここに何もなければ、次の町へ行く」ことである。

本来が行動的な人間であるためか、ことが決まれば物事は進んでいく。僕は全ての荷物を持って1階へと降り、感じのいい青年の代わりに座っていた明らかにやる気のなさそうなフロントのおばさんにチェックアウトを告げ、勢いよく外へ飛び出していった。そしてホテルから町の中心部に向かう途中、近くの切符売り場で4時間後に出発予定の列車の切符(14元)を買い、駅へと足を進めるのだった。

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道中には市民に開放されている無料の動物公園があって、そこではウサギとカンガルーのハーフのような動物が暑さでぐったりしていたり、物憂げな表情を浮かべるヤギが何の前触れもなく排尿したりしていた。動物園は基本的に好きな僕だが、この時ばかりは全ての荷物を炎天下で背負い歩いているため足早にそこを通り抜け、ホテルを出てから約1時間、ようやく駅の近くへとたどり着いたのだった。ただ同時に少しお腹がすいていることにも気づき、そろそろ涼しいところで休息も取りたいと思い始めたときに目に入ったのが以下の看板。

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そうケンタッキー、中国語なら『肯徳基』である。実は2005年当時からマクドナルド(中国語なら『麦当労』)やケンタッキーは中国でも既に広がっていて、上海でもいくつか見かけていた。気になっていたこともあり、早速ドアを開けた途端、涼しいクーラーの冷風が流れてきて、見渡すと清潔感があって過ごしやすそうな雰囲気が店内に漂っていた

というのも当時の中国のレストランで冷房が完備されているところはほとんどなく、湿気も多いアジアの気候下では、涼しい部屋で快適に食事するという機会があまりなかった。そのためこういった外資系のファストフードレストランはテーブルとイス、冷房があるという点だけでもバックパッカーにとっては最高の環境だった。もちろんメニューを見ると他の場所に比べて割高でセットが17元(230円)なのだが、「日本と比べればそのくらい…」というバックパッカーがよく使う言い訳を、僕もまた自分に言い聞かせるのだった(ちなみに一般的な中国の食堂で同じ量なら当時10元くらい)。
そして2時間後、心身ともに満たされた僕は食べ終わったトレーを片付け(ただ中国ではあまり自分で片付ける客はおらず、それは基本的に従業員が担う仕事だった)、少し暑さが和らいだ午後3時の空の下へと再度出ていくことにした。

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駅へ向かう路地では様々な人が行き来していた。果物売りや揚げ物売り、よくわからない機械の部品を売り歩く人など、中国の日常がそこにあった。僕は路上の屋台でバナナ2本とビスケット菓子を 1パック、電車で食べる用に購入し、駅へと向かった。
そして迷いながらもようやく駅にたどり着いたのだが………、何か様子が違う。ここは駅だが………電車じゃなく、バスの駅じゃないか!

そう、中国ではバスターミナルは「汽车站」、電車の駅は「火车站」と表記することをすっかり忘れていた。僕は近くにあるはずの電車の駅の場所を近くの人に聞きながら急いで探し回り、ようやく見つけるころにはもう発車時刻の10分前になっていた。
小走りをしながらなんとか列車に乗り込むと、座席は上海からの電車と同様にボックス型で、目の前に座っていた同い年くらいの女子二人と向き合うような形となった。日本にいる頃、僕は決して女好きというわけではなかったのだが、やはり正面に座ってくれるなら男性より女性、おばあちゃんよりは若い女性がいい。僕は上海から蘇州行きの電車で李くんと仲良くなったとき同様、本を読みながら外国人であることをアピールしたのだが、彼女たちはこちらの方を一度たりとも見ることはなく、ただ時間だけが過ぎていくのだった。

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そして何も起こらぬまま1時間後に到着したのは…南京駅。ここは地下鉄が整備されていて、駅から上海・無錫で泊まったのと同じ系列のユースホステルの近くの駅まで行けるようになっていた。中国の地下鉄は、切符が紙の代わりにチップが使われていること以外は日本のものとはほとんど変わらず、僕は日本と同じように交通機関を簡単に使えることに感動しつつ、乗り換えなしの15分後、列車は目的の駅に到着した(今では荷物検査がほとんどの場所でされているが、当時の南京では特になかったように思う)。

地下鉄の駅から地上に出るとそこはちょうど大通りで、ホステルもすぐ見つかりそうだった。…が、ホステルの名刺に載ってある大雑把な地図では歩けど歩けどなかなかその場所を突き止めることができない。雨も降り出してきてそろそろ他のホテルに妥協してしようかと思い始めてきたその時、ようやくホテルが目の前に現れた。南京駅についてからもう2時間が経っていた。

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汗だか雨だかで濡れていた手で扉を開けると、ドアベルの「カランカラン」という音が1階全体に鳴り響いた。少しうるさいそのベルの残響と共に中へと進むと、すぐそこにはビリヤード台が置かれていて、ビリヤードに興じていたアジア人や欧米人の客は確認するかのように一瞬こっちを見たが、またすぐに球をついて楽しそうに遊び始めた。

その欧米的な雰囲気に少し緊張しながらも、僕はビリヤードに興じていた彼らの間を縫うように受付まで進み、そこにいた同い年くらいの受付係の女性に声をかけた。
「Today, 1bed, OK?」
と彼女に聞いてみたが、彼女は
「何でお前は中国人のくせに下手くそな英語で話そうとしているんだ」
というような訝しげな顔をしながら「Yes」と答えた。

見た目が外国人と思われないため、こういう反応が中国では結構多い(ちなみに何故かはわからないが、中国語が話せるのにあえて英語で話しかけようとする中国人も実際にいる)。そして他のホテルの従業員と同じように、僕がパスポートを見せた途端、彼女は少し驚いたのだが、彼女は中国語でも英語でもなく、「日本人ですか?」と日本語で言葉を発した。どうやら少し日本語を勉強していたらしく、片言ではあるものの少し日常会話ができるようだった。彼女の日本語はビジネスで使えるほどは上手ではなく、僕たちの会話は英語やジェスチャーも交えてのものだったが、ほのかな笑顔を見せながら手続きに入った彼女を見て、僕は幾ばくかの安心感と親近感を彼女に抱いていた。

そんな彼女から、目線をホステルの方に向けると、やはり欧米系の客が多いためか内装は洋風で、特に若い人が好むようなクラブ的な雰囲気が漂っていた。ただそれはこのホステルの話だけではなく、実は南京自体も若者の街のような雰囲気を醸し出していた。というのもここに来る間に外はもう暗くなり始めていたのだが、露天や店のライトが街を明るく照らしていて、そこでは若者向けのケータイストラップやぬいぐるみなどが売られていたからだ。路上で売られていた土産物も服も全体的にセンスが良く、僕はホステルを探しながらも、街全体が非常に垢抜けている印象をすでに感じていた。

そんなことを考えていると受付の彼女が少しパニックになりながら英語と日本語を交えてこう言った。
「登録が終わったから、8人ドミトリーの一泊料金40元(=540円)を払ってくれる?あと、ビザと入国スタンプがないんだけど。
「ああ、それは別の紙にあるから大丈夫だよ。多分パスポートの間のどこかに挟まってると思うけど…」
僕は笑いながらジェスチャーと下手な英語でそれを伝えたが、彼女は少し調べた後、「やっぱりない」と言う。
「あれ?じゃあウエストポーチの中かな…?」
しかし見つからない。少し雲行きが怪しくなってきた。再び彼女が言う。
「それがなかったらこのホステルには泊まることができないけど。」

…やれやれ。昨日の今日でまた問題が起こるのか…。自分の責任なんだけれど、旅とはこんなにもトラブルにまみれるものなのか、僕は混乱しながらもそんなことを考えていた。


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