詩想1

歳時記を読んで俳句を作ろう。いや、詩を作ろう!

「蚯蚓鳴く」という季語がある。この季語と回想の取り合わせは良いと思ったのだがうまく作れない。

回想におけるぼんやりとした、しかし確実に響いている、通奏低音。そんなものとして聴いた。私は。「蚯蚓鳴く」を。

ループ感もあるし、静かになればそれに支配されるような、そんな魅力がある気がする。映画のくるくる回す、あの名前も知らない装置の感じが「蚯蚓鳴く」にはある。

君に訊く濃いか淡いか秋の暮れ

この句に似た句(?)を昔作った。ガソリンスタンドで。

日が落ちて濃いか淡いか空の青

という詩を作った。ただ、「落日」という季語もある(らしい)ので俳句と言えるのかもしれない。細かいことは知らない。ただ、季節を問わず、私はこういう風景を愛したい。

夜長なり人が一人は死んでいる

なんかよくわからないけれど、いいね。なんというか、お屋敷が見える。山奥の。それでも暮らす、人間。

夜長なり一つの死体とぞ思う

夜長は一つの死体だろうよ、みたいな感じ。「とぞ思う」の使い方が合っているのかがわからない。

夜長なり人の死体はここになし

夜長なのに人の死体がここにないのはおかしい、恥ずかしいことだが、でもないのだから仕方ない!デデン!という感じ。

なんかなあ、いい感じなんだけど、一押しがないなあ。

片付けの損ね続けて秋の星

なんというか、ちゃんと見え過ぎて、いつまでも片付かない夜空を感じた。「秋の星」という季語を聞いたとき。「散らばりて片付け損ねて秋の星」もいいかもしれない。美醜力が私にはない。俳人ではない私。

発想の良さはわかる。が、それを句に繋げるのは極めて難しい。

芸術の秋に緑の尾を垂らす

なんというか、日展に来ている人は尾を垂らしながら展示を見ている感じがして、それを詠んだ。よくわからないと思うが。秋だからこそ緑。

檸檬持つここはスーパーマーケット

檸檬を持つとなんだか、私が緑から黄色に変わるような、そんな感慨がある。それをスーパーマーケットで感じる、その人間らしさと人間らしくなさ。こんなことでそのことが伝わるとは思えないが、とりあえず語感が良かったので書いておいた。

団栗を左手で投ぐ夕べかな

わざわざ左手で投げている。「投ぐ」や「夕べ」、「団栗」に対して「左手」は少し異質で、「左」という極めて概念的な概念は異質で、その感じも面白い。いきなり横文字があるような面白さ。

今日はこれくらいにしよう。

蚯蚓鳴くあの日のことを思い出す

最後に「蚯蚓鳴く」で詠んでみた。素朴すぎるかもしれないが、実際に蚯蚓は鳴いていない、そもそも発声器官も持たないのがこれまた「思い出す」ことに近いと思われる。

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