さがしものさがし

あたらしい世界が開けるその瞬間を和やかに、そして厳かに書き留めることができたなら、私が…

さがしものさがし

あたらしい世界が開けるその瞬間を和やかに、そして厳かに書き留めることができたなら、私が表現することの価値はあると考えています。

マガジン

  • 思いついたときに書く、直接、ここに

    思いついた時に、直接、ここに書いたものを置いています。簡単に言えば、あんまり何も考えずに書いています。

  • 文学

    一週間の日記が一番文学らしいので文学と名付けています。読んでもらうと私という人間がどのような人間と関わり、どのような人間になりたいかの片鱗がわかるかもしれません。

  • 有料(優良)作品集

    有料ですが優良な作品たちです。気合入っています。

  • 一本道

    他の可能性を無視する形で走ることでその一本道に多様な可能性を呼び込もうとする天邪鬼な文章実践です。

  • 私の基本的立場

    自分が基本に据えているもしくは据えてしまっていることを書いています。私の基本的な論の進め方や前提について書いてあると思って貰えばいいと思います。

最近の記事

「AとB」という形で一番面白そうなものを探す!

素人と車輪の再発明(への恐れ)。 「AとB」という形で一番面白そうなものを探す! 前に、「AとBは似ている」ということについて少しだけ。「AとBは似ている」というのはAとBに共通するXが取り出されるということではなくBのA性もしくはAのB性が見つかるということであり、そのA性B性はそのような形でしか見つからない場合、「似ている」は意味を持つ。ここでの「意味を持つ」は「納得される」くらいの意味であり、「言い得て妙と思われる」くらいの意味である。 くだらない優越感と寂しさ。

    • たぶん9時48分くらい

      机の上のペットボトルに差す。光。光は散らばり、しかしざわざわせず、ただ単に散らばっている。ただ単に散らばっている。 このペットボトルは人間のメタファーなのである。 お茶が残っていて、くすんでいて、それでこそ人間らしいのである。 私は机の上に何かがあるとそれを何かに見立て、それをやたらと称賛してしまうのである。そういう癖があるのである。「人間のメタファー」というのはちょうどベルクソンが光のたわみとしての人間(もしくは生物?)ということを言っていたような記憶から言われたもの

      • 私の読書の楽しみ方

        読書の楽しみ方について考えてみましょう。 読書の楽しみ方というのはおそらく人それぞれでしょう。というよりも私は人それぞれでいいと思うんです。なので、私はここに私の楽しみ方を書きたいと思います。 私はメモをしながら読書をします。いまはたまたま通信制限下にあるのでメモも制限されていますが、気になるところはすべて文字スキャンアプリでスキャンしてメモします。では、そのメモはどうなるのでしょう。そのメモは考えごとをするときに参照されます。また、考えごとの種になります。つまり、メモは

        • 通信制限下の読書

          おはようございます。 今日、私は通信制限下にいます。その状況での読書は普段のそれとは異なるのでその「異なる」がなんなのかを軽く確認したあと、その「異なる」がもたらすと考えられるものについて考えてみたいと思います。 まず、「異なる」のは主に二つ。一つはTwitter(現X)が見られないということです。私は読書に疲れるとTwitterを見て、新刊情報などを漁って休憩するのですが、それができなくなるということです。これはまあ、別にそんなに大きな変化ではないと思います。もう一つが大

        「AとB」という形で一番面白そうなものを探す!

        マガジン

        • 思いついたときに書く、直接、ここに
          180本
        • 文学
          175本
        • 有料(優良)作品集
          2本
        • 一本道
          382本
        • 私の基本的立場
          0本
        • 書きたい時に書いたこと
          41本

        記事

          故郷

          独特の、私に独特のイメージ、その連鎖をここに、私は残しておきたい。これは一つの演技であり、演舞であり、一つの舞踊である。私はただ、私が知る私のイメージたちの集まりの、あの白鷺たちの光景を見てみたいのである。 白鷺たちは故郷を持つ。私は二度、異なる場所でそれを理解した。白鷺たちは私たちからすれば他のものとまったく変わらない、とまでは言わないまでも、大して変わらない木(確かにそれは大きな木だったのだが)に停まっていた。集まっていた。白鷺は白い点となり、私はその点を、星座にするこ

          つまらない文章はなぜつまらないのか

          つまらない文章はなぜつまらないのか。これを考えることによって「つまらない」と思うというつまらない状況を避けることができるようになってくるのではないか。そう思ったのでそれを考えようと思う。 ただ、人生においても重要なように、偶然ということをまずは考慮に入れなくてはならない。というのも、ただ単に「腹の虫の居所が悪い」とか、「気分が乗らない」とか、そういうことが原因の「つまらない」もあるし、ただ単に「疲れている」とか、「心配事がある」とか、そういうことが原因の「つまらない」もある

          つまらない文章はなぜつまらないのか

          『やましく生きる』

          2024/8/12「やましく生きる」 私は真似をしているだけです。世界を素敵に受容する者たちの真似を。 「者」というのは一つのまとまりです。まとまる仕方です。 元も子もない話から始める。それが私の作法です。流儀とまでは言いませんが作法です。方法とまでは言いませんが作法です。 例えば、私は俳句を読み、少し詠みますが、それは単純に俳句が短いからです。ではなぜ「短い」必要があるのでしょうか。それは私が「短い」ものしか覚えてられないからです。ではなぜ「覚えてられる」必要がある

          『やましく生きる』

          私と私の手紙のやり取り

          私は手紙を交換したい。君。そう、明日の私と。 この一週間はそれをすることにしましょう。いや、月曜日から土曜日まで、それをすることにしましょう。そして土曜日にそれを出しましょう。できるだけ離れた、ストレッチした時間で書きましょう。できるだけ。 少しだけ設定を考えましょう。月曜日、水曜日、金曜日の私のほうが後輩であることにしましょう。この「後輩」というのは何の後輩でもいいですけれども。月曜日、水曜日、金曜日の私はAさん、火曜日、木曜日、土曜日の私はBさんと呼ぶことにしましょう

          私と私の手紙のやり取り

          ラジオを聴くとはどういうことなのか

          私はラジオを聴くのが苦手である。果たしてそれはなぜなのか、それを考えてみたい。 まず、二つのことをしておきたい。一つは私が聴いているラジオを並べることである。なぜなら、聴いているラジオの種類によって苦手である仕方は異なるだろうからである。もう一つは重要だと思われるキーワードを並べることである。なぜなら、この苦手には色々な問題が含まれている予感がするからである。では、聴いているラジオを並べてみよう。 聴いている頻度順(大体)で行けば、①ゆる言語学ラジオ、②哲学の劇場、③ゆる

          ラジオを聴くとはどういうことなのか

          肩の力を抜く

          本気で考えてないなあ。私はそう思う。私に対してそう思う。ただ、本気を出すためには本気を出すための場所が必要で、それがここじゃなかった。「ここ」というのはnote。もちろんnoteが悪いわけではなくて、「noteに投稿する」と微かにでも思うとやっぱり、前提の説明から始めようとして、けれどもあまり長いのは書きたくなくて、それでも独自路線みたいにするのも癪で、だから適当になってしまって。いい意味でも悪い意味でも。そしてそれに慣れてしまって。それを新しいスタイルだとか思って。言っては

          リフレーミング(短所を長所に言い換える、アレ)について考える、軽く

          なぜ私はリフレーミングが嫌いなのか?それを考えてみよう。 ここでの「リフレーミング」というのは「短所を長所に言い換える」ことである。専門的にはどうなのか知らないが、私が嫌いなのはこのことなのでここでの「リフレーミング」はこれである。 私は大学の授業で、心理学の授業で、この「リフレーミング」なるものをした。させられた。そのとき私は自分でもびっくりするくらいそれを嫌がった。その嫌悪感、おそらく生理的な嫌悪感と言えるような嫌悪感、その正体が知りたい。 まず、二つの可能性には一

          リフレーミング(短所を長所に言い換える、アレ)について考える、軽く

          私の快楽

          私の快楽は「『私とあなたは違う』と言ってニコニコする」ことにある。これがわかる人とわからない人とでは私のしていることへの理解度に著しい差がある。と、少なくとも私は思う。 おそらくポイントとされるのは「ニコニコする」のところだろう。しかし、そこは自然な反応としてそうなるだけで、その意味で強調されているだけで、本質的には「『私とあなたは違う』と言う」ところである。 もちろん、いつ言うかは大事である。分かり合えない、そのもどかしさのなかでは諦観を表現したものに見えるだろう。しか

          適当にぼんやり、ぶちぶち

          猫が寝ているのを見ていた。私はいつのまにか寝ていた。少しだけ頭が痛い。私は思い出していた。何があったのか、何があったのか、私は思った。どうして何がなかったのかは思い出せないのに可能性なんてものがあるのだろうか?と。どこか私たちは勘違いしているのではないか、と。しかし、私は頭が悪くてそれが何か、それがいまいちわからなかった。いや、いまいちどころか、まったくわからなかった。 わからないのはなぜか。それを考えてみることすらできなかった。それは考えてもわからないからではなく考えられ

          適当にぼんやり、ぶちぶち

          『星が降りそうな夜だから』

          2024/8/5「星が降りそうな夜だから」 そのときに作れるものを作る。それは別に知識不足でもいいからとか、とりあえずやってみろとか、そういうことではない。そのときにしか作れないものがあるという単純な信念から私はそう言っているのである。私たちは成長ではない変化もする。そういう新年から私はそう言っているのである。 私は私の作品を愛します。 近々出る、「散歩と文学、ときどき哲学」という作品を愛してみましょう。これが出るまでには出ているでしょう。 極めて特権的な振る舞いで申

          『星が降りそうな夜だから』

          「優れている」ということの一つの解釈

          優れているということの一つの解釈。私はそれを発見した。優れているとは本を「今日はここまで」と閉じさせるようなことである。 私は『なしのたわむれ』(素粒社)という本を読んでいました。その本は俳人である小津夜景さんと音楽家である須藤岳史さんが文通をしている本です。私は小津さんからの手紙、しかも最初の手紙で本を置きました。そして上のように思ったのです。いや、精確に言えば、本を閉じて本をしまったのです。そして私は思いました。優れているとはこういうことだ。と。そのことについて考えてい

          「優れている」ということの一つの解釈

          哲学にとって友人とは何か

          今日は、哲学にとって友人とはなんなのか、という話をしましょう。 まず、なぜそんな話をするのかを考えましょう。私には哲学する友人、共に哲学する友人がほとんどいません。一応一人だけいて、その人とはたまに哲学をします。それぞれがそれぞれの気になることを言い合い、それぞれが問いと答えをペアにして提示する。そういう感じのことをたまに、その人とはします。しかし、「たまに」です。いつもそうであるわけではありません。しかし、その人以外とは「たまに」もしません。なので「私には哲学する友人、共

          哲学にとって友人とは何か