さがしものさがし

あたらしい世界が開けるその瞬間を和やかに、そして厳かに書き留めることができたなら、私が…

さがしものさがし

あたらしい世界が開けるその瞬間を和やかに、そして厳かに書き留めることができたなら、私が表現することの価値はあると考えています。

マガジン

  • 思いついたときに書く、直接、ここに

    思いついた時に、直接、ここに書いたものを置いています。簡単に言えば、あんまり何も考えずに書いています。

  • 文学

    一週間の日記が一番文学らしいので文学と名付けています。読んでもらうと私という人間がどのような人間と関わり、どのような人間になりたいかの片鱗がわかるかもしれません。

  • 一本道

    他の可能性を無視する形で走ることでその一本道に多様な可能性を呼び込もうとする天邪鬼な文章実践です。

  • 私の基本的立場

    自分が基本に据えているもしくは据えてしまっていることを書いています。私の基本的な論の進め方や前提について書いてあると思って貰えばいいと思います。

  • 書きたい時に書いたこと

    書きたいなあ、って思った時に書いたものを、残しておくところです。

最近の記事

読書はなぜ楽しいのか 2

 「読書はなぜ楽しいのか?」という問いについて先ほどある程度こたえた。応えた。ここからはそれに答えてみよう。  ここで用いるのは享楽と快楽の差異である。ヒントは「読書はなぜ楽しいのか?」という問いに応えたあとに読んだ『ラカンと哲学者たち』の中にあった。  ここで言われていることはカントが自らの道徳法則についての議論の際に「快楽/法」という対比が成り立つためには「道徳法則の峻厳さ=致死的な享楽」がそもそも存在している必要=それが存在しなければそもそも私たちの「日常」が存在しな

    • 読書はなぜ楽しいのか

       さて、今日は時間があるので一つ、私が気になる問い、トピックを抱き締めて、いや、一緒に布団に入ってお話ししたり眠って夢を見たり、それを見たり、笑い合ったりしてみたい。  その問いというのは「なぜ読書は楽しいのか?」という問いである。トピックという言い方はとりあえず置いておこう。この問いはなぜ発せられたか。それをまずは確認しておこう。出会いを振り返るように。  私は読書が好きである。読書の中でも特に純文学と哲学が好きである。何が純文学か、何が哲学か、と言われるとそれはそれで困

      • ()は私と共に存在するのだろうか、それとも私が本文と()として存在するのだろうか、それともそもそも区別など存在しないのだろうか

         死にたいと思ったことはない。そもそも私は「〜したい」があまりない。そのなさが「死ぬ」にも適用されている。ただそれだけな気もする。  ただ、私は一つだけ言っておきたい。それは自殺というのはおそらく衝動的なものであり、それが衝動的であると言われるくらいには、なんと言えば良いか、繋縛的であるのが希死念慮なのではないかということである。    と書いてやっと「希死念慮」が何であるかを調べた。すると、これは、相見積もりをちゃんとしていないので間違っているのかもしれないが、「自殺念慮」

        • 『樽も寝な』

          2024/4/15「樽も寝な」 みんなは私を誤解している。かもしれない。が、それと同時に私はみんなを誤解している、かもしれないし、私は私を誤解している。 「比較」と「対比」はどう違うか。「比較」は主題が安定しているのに対して「対比」は主題が安定しているか否か、安定しているならなぜ安定しているか、と問うことを触発する。 そうか。君たちは問いを作るとか、問いを仕立てるとか、そういうことをしないんだね。主題にもほとんど。 なぜ「、」では少し止まらなくてはならないか。それは「

        読書はなぜ楽しいのか 2

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        記事

          透明なトンネルで出会う

           ある人が書いた一連の文章を読んだ感想を書こう。  まず、私は思う。なんというか、数が少ない、と。一つ前のアカウントがあったらしい。そう思うとアカウントというのは一つの区切りであり一つの区切りでしかない。私はかつてこの「区切り」が毎日、毎時間、毎分、毎秒は誇張だがとにかく、「すべては別のものである」みたいなことを思っていた。「すべて」は二重の意味があって全体と全体を構成する要素を意味している。次元を設定したところでその次元をそのように存在させるのはどのようにしてかがわからな

          透明なトンネルで出会う

          頭を振るという気持ちよさ

           今日はこの快感をより強固に、強力にしていきたいと思う。なぜそんなことをするかと言えば、気持ちいいからである。快楽だからである。  まずは快感があった。あるヒップホップを聴いていて頭を振るとなんだか、なんというか、独楽が回っているような、そんなふうに思った。少しふらふらしつつ、ただ(、)回っている。そんな感じがした。それが快感だった。  そして気がついた。ああ、このゆらゆら、ぐわんぐわんする感じは頭が重たいから、中心に畳み込まれるような、そんなイメージがあるからわかるし、それ

          頭を振るという気持ちよさ

          二週間くらい労働してみて……

          バスを待つ。だいたい少し遅れる、そんなバスを待つ。 さて、まるっきり労働なしの状態からばりばり労働ありの状況になったわけだが、そこで気がついたこと、実感したことを考えることのエネルギーにしてみたい。 心底思ったのは私は体力がないということである。この「体力」というのはもちろん「体を動かす力」でもあるし、それと同時に「精神を保つ力」でもある。私はどちらもない。もちろん、新人がいきなりこれらを持っているということはなく慣れるのを待たなくてはならないことはあるだろう。しかし、私

          二週間くらい労働してみて……

          『一口の未熟』

          2024/4/8「一口の未熟」 素敵に生きてほしい。私が他人に思うことはそれだけである。「素敵」とは何か。私にはわからない。が、私なりにそれを生きている。私はそれを「素敵だ」と言う。ここには少なくとも二つの方向性がある。一つは「素敵に生きよう」としてそう生きる方向性。もう一つは「生きる」が「素敵だ」と言われるという方向性。別にどっちでもいいと思う。し、どちらでも取りこぼしがあることを知ることが「素敵だ」と言えるかもしれない。 バス停に座ってふと、ふと見ると、目の前の建物の

          『一口の未熟』

          私はなぜ「ありがとう」と言われることを嫌がっているのか

           私は嫌がっている。「ありがとう。」と言われることを。嫌がっている。  今日はこのことについて、もしくはこのことから考えてみたい。まずはある程度具体的なエピソードを確認しよう。私がこの嫌さに気がついたときのエピソードである。  私は近所の行きつけのラーメン屋さんに入ろうとしていた。すると、あちらから足の悪そうな高齢者の方が一人で歩いてきた。私はドアを開け、その方が出られるまでそのドアを持っていた。すると、その方は私の方を顔を向け「ありがとう。」と言った。私はなんだか嫌な気

          私はなぜ「ありがとう」と言われることを嫌がっているのか

          詩を読み書きすること

           私は思うのです。素敵に生きたい、と。そして私は思うのです。詩人になりたい、と。すると囁くのです。それなら詩を読み書きしましょう、と。  私は詩を読みます。書きます。豊かに書けるようになりたいか?それとも豊かに読めるようになりたいか?そう訊かれたとしましょう。すると私は答えるでしょう。もちろん、読めるようになりたい、と。  では、私はなぜ、なぜ「もちろん、」と言うのでしょう。それを今回は考えてみたい。そう思います。  いくつか理由は考えられるでしょう。おそらく最も一般的な

          詩を読み書きすること

          『夢のような人』

          2024/4/1「夢のような人」 私は夢に対して「現実みたいだった。」と思うことがあまりない。みんなはどうなのだろうか。私にはわからない。 この「わからない」は原理的なそれなのか、それとも原理的ではないそれなのか、私はわからない。 レトロスペクティヴの哲学。としての文学なり美学。 私は未来の私が読んで面白いものを書こうと思っている。が、ちゃんとそうできているだろうか。私は。 まるで石化するように、堰切って現れるような現実、その手触り、彫刻。沈黙。 私は醒めた私を連

          『夢のような人』

          「生活」と「読み書き」

           私は歩く。私は乗る。私は歩く。着く。そういうことをしていると、いや、そういうことがしばらく反復されるのだと思うとなんとなく、なんとなくこういう生活でしか書けないことがあるような、そんな気になる。  この信念を支えるのは単純な思い込み、もしくは洞察である。それは「生活」と「読み書き」は連動しているという、そういう信念である。信念を支える信念というのも変な言い方だが、どちらも信念であることに変わりはない。だからそういう言い方をさせてもらおう。  さて、私は最近「緩やかさ」みた

          「生活」と「読み書き」

          『べこべこ赤べこ、ちゃんちゃんこ』

          2024/3/25「べこべこ赤べこ、ちゃんちゃんこ」 離れられないことが固有の問題を作る。いや、それを作らざるを得ないことによって問題は固有となるのである。それは幸せでも不幸でもない。ただ単にそうであるだけである。 享楽というのもこのことと同型である。それぞれに固有の享楽があり、それぞれは享楽せざるを得ないことが固有性である。 もちろん、このような構造を「人間一般」のように抽象化することはできるだろう。いや、そもそもそれができなければ何もできないのである。このことはウィ

          『べこべこ赤べこ、ちゃんちゃんこ』

          別れ(愛のレッスン)

           三月は別れの季節である。桜というのはこんなにも、ゆったりと咲き、早々と散っていくものだっただろうか。  今日、いや、先ほど、少し前、かなり前、長らく(と言っても別に年数にするとそんなに長くないかもしれない。ただ、私にとっては長かった。)一緒に楽しくしていた人たちと別れた。一旦。いや、実はずっとなのかもしれない。  苦楽を共にしたわけではない。ただ単に一緒に過ごし、ただ単に楽しかった。そういう気持ちである。いろいろ複雑な事情があり、それゆえの寂しさのようなものもある。ただ、

          別れ(愛のレッスン)

          ある人への不満

           ここで書くのはある人への不満である。そのある人というのはこの文章を書いている人と同じ人であるとされる人である。私の名前をSとするとSへの不満である。(どうでもいいことかもしれないが私の名前はSではない。)  君=Sは良い文章を書く。私もそう思う。し、爽快感を感じる、少なくとも私は爽快感を感じる文章の数々は私を軽くしてくれるだろう。私はあまりしがらみとかを感じることがないが、それはもしかすると君があらかじめしがらみを解きほぐし、私にある種の勇気と傲慢さを与えてくれているから

          眠たいけれど書いてみる

           私は今、かなり運動をして、お風呂に入り、ご飯を食べて、とても眠たい。疲れていて眠たい。だからか、頭も痛い。ここで書きたいのは「書く」ことと「読む」ことの一つの関係である。この関係は私の経験上、こういう疲れているときに強調される。それを書きたい。  まず、前提として確認しておきたいのは、「読む」というのは健康を条件としているということである。そもそも健康でなかったら「読む」気も湧かないし、奇跡的にそれが湧いたとしても「読む」ことを続けられない。そして、続かない「読む」は結局「

          眠たいけれど書いてみる