私の快楽

私の快楽は「『私とあなたは違う』と言ってニコニコする」ことにある。これがわかる人とわからない人とでは私のしていることへの理解度に著しい差がある。と、少なくとも私は思う。

おそらくポイントとされるのは「ニコニコする」のところだろう。しかし、そこは自然な反応としてそうなるだけで、その意味で強調されているだけで、本質的には「『私とあなたは違う』と言う」ところである。

もちろん、いつ言うかは大事である。分かり合えない、そのもどかしさのなかでは諦観を表現したものに見えるだろう。しかし、それは強調され過ぎた諦観である。諦観ではあるのだが、それは強調され過ぎである。

あと、競争をブロックすることは重要なことだろう。あと、もう少しテクニカルなことを言えば、アイデンティティとドロモロジーには注意しなくてはならない。

うーん、あと、共通了解まで高める、もしくは低める必要があるのかはわからない。共通了解まで持っていくためにはアイデンティティやドロモロジー、競争が必要になってくる。その工夫をするのは面倒くさいのでとりあえずは共通了解を保留しておきたい。ただ、実はそれしか問題がないとも言える。

未来の私はここで言われていることを理解するだろうという楽観、そしてそれを楽観ではなく普通のことにするシステム、それが、特にアイデンティティに関係が深いシステムである。で、それの一つの形態が、それへの一つの怨恨が、ドロモロジーである。そしてその文法が競争である。

だから、それらを置いておくとすれば、問題はない。だから、問題があると考えている時点で既にこれらは呼び寄せられてしまうのだ。怨霊。

素晴らしい詩はたくさんある。他人もたくさん書く。けれども、素敵な詩はそれほどない。他人はほとんど書かない。いや、まったく書かないかもしれない。ここでいつも思うのだ。「私とあなたたちは違う」と。しかし、思っているだけであり、「あなた」ではなく「あなたたち」である。もしかするとこれが私の快楽の本義なのかもしれない。

意見が違うことで「私とあなたは違う」と言うことは多少の訓練さえ積めば容易い。しかし、それは快楽ではない。快楽が始まるのはそこからである。意見の相違を立場の相違にすること。立場の相違をさらに「意見の相違を立場の相違にする」のと同じ操作を繰り返すことによって高めること。それこそが快楽へと向かう道なのである。意見が違うことに満足してはならない。これは快楽のための掟である。

最後にはどこに行き着くのだろう。世界観の相違?人間観の相違?、そんなものだろう。間違っても価値観の相違を最終地点にしてはならない。価値観は世界観や人間観によって決まるのだから。あとは時代。ドロモロジーは時代的な概念である。

「私とあなたは違う」ということは恋愛的な原理であると言えるかもしれない。その場合「違う」は絶対的な距離になる。埋められない距離になる。「距離になる」のが本質なのか、「埋められない」のが本質なのか、そもそもその二つは本質的には同じなのか。私にはわからない。

まあ、距離があるのではなくて距離感があるというのが本当か。実感としては。ただ、それが実感であるのは「埋められない」からかもしれない。だから「距離感」になるのだとしたら「埋められない」と「距離感」は少なくとも同時に発生していることになるだろう。あとからそれをどのように表現するにしても。「距離」の場合はもっと実感から遊離する。けれども、遠距離恋愛は実際にあるわけだから、それはどう考えればよいのだろう。

「ニコニコする」ことができる「私とあなたは違う」は例えば、共通の度量衡によって「違う」ことがわかるということではない。度量衡そのものが「違う」とやっと「ニコニコする」ことができるのである。まあ、「私とあなたは違う」をわざわざ「言う」ことに「ニコニコする」のかもしれないが。

まあでも、少し先走り過ぎたかな。冒頭の定義は。私の快楽は度量衡そのものが「違う」ような存在を発見することと言えるかもしれない。ただ、「違う」と言えるくらいは「違わない」のである。しかし、その「違わない」がどういう形態なのかによって快楽の度合いは変わると思われる。

この形態の話が「意見」とか「立場」とか、「人間感」とか「世界観」とか、そういう話に関わってくるのである。で、「意見」が最も快楽の度合いが低く、「世界観」が最も快楽の度合いが高い。そういうスペクトラムが一応は描けるだろう。実は二つのスペクトラムのペアでもあると思うが。まあ、そう言うなら「意見」と「人間観」の関係になるかもしれないが。

もう少し実践的に言うなら、関心領域というか、問題意識というか、そういうものが根本的に違うことが「私とあなたは違う」と言うきっかけになるだろう。しかし、それをちゃんと、適切に、より享楽的に言うためには土俵がなくてはならない。押し合いへし合いするための。

このような舞台設定、土俵の準備によって度量衡は廃止されるのだ。それぞれに土俵を準備することを許す、舞台で演じる、そんな心の広い人が必要なのだ。それが哲学であり、文学である。

友達と話していて「私とあなたは違う」と「言う」場面はないだろう。ほとんど。それが享楽的になり、後から振り返って快楽的になることは。それは私たちが哲学や文学の話をしないからである。これは哲学書や小説の話をしないということではない。ただ単に「世界観」や「人間観」の話をしないということである。私には一人だけそういう友達がいるが、そういう友達が居なさすぎて、仲良くなりすぎてしまっている。困ったことだ。「私とあなたは違う」と「言う」にしても、私たちはそもそも「ニコニコする」ことから始めてしまうのである。冷笑でも嘲笑でもない。微笑であり哄笑である。そんな「ニコニコ」。

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