故郷
独特の、私に独特のイメージ、その連鎖をここに、私は残しておきたい。これは一つの演技であり、演舞であり、一つの舞踊である。私はただ、私が知る私のイメージたちの集まりの、あの白鷺たちの光景を見てみたいのである。
白鷺たちは故郷を持つ。私は二度、異なる場所でそれを理解した。白鷺たちは私たちからすれば他のものとまったく変わらない、とまでは言わないまでも、大して変わらない木(確かにそれは大きな木だったのだが)に停まっていた。集まっていた。白鷺は白い点となり、私はその点を、星座にすることさえできず、ただ一人、いや二人、それを見ていた。
私はどうだろうか。故郷を持つだろうか。私は最近故郷を離れたが、私はそれを寂しく思うことはなかった。ただかすかに、私はあの、街灯に照らされた、あの大きな木との別れを惜しんだ。いや、精確に言えば、惜しまなかったことを惜しんだ。ただ、それだけのために帰るわけにもいかず、帰れない距離ではないからこそそのことが気がかりで、私は中途半端に遠くへ行った。
望郷。漢詩のテーマの一つ。私はそれが実感できない。ただ、実感の予感はあり、ありありとあり……
非通知設定から電話がかかってきすらしなかった。だから無言になってしまった。まあ、適当に繋がっているのだから仕方ないことなのかもしれないが。
私はなぜ不安になっていないのか。不安になりそうなものだが、なぜかそうなっていない。そのことに不安になっている。
「人は不幸にも不幸を演じる」という歌詞がある。透徹した歌詞がある。ただ、それが「透徹した」ものに見えるというのはどういうことなのだろうか。さて?
空を見ると、いつも心が落ち着く。揺れる木を見ると、いつも心が躍る。この「いつも」は異郷をなくす。どこにも空はあり、どこにも木はあるからだ。照らされた木もたしかに次元は違うかもしれないがどこにでもある。ただ、私は「照らされた木」に関してはこだわりがあり、それが異郷を作っている。ただ、私は唯一性を愛しているわけではなく、おそらくこの家の周りを散歩さえすれば、それはそれでいい木を見つけることができるような気がする。ただ、あの木があったところは住宅街、静かな静かなそれだったから、ここは割と栄えた街だから、それは違うかもしれない。私の故郷制作力が試されている。
あらゆる生活はメタファーになる。それが生活の希望だと私は思っていた。ところがある。が、別にそれ自体として肯定すればいいじゃないか、とも思う。私は嫌がるだろうけれど。私は私にさえ遠慮している。ただ、それはそれでいいし、別にそれでいけないことはない。何度も同じことを確認するように言い及ぶ。それもまたいいではないか。
心艶やかに生きてきて、美味しそうな匂いは家を作り、たまに溺れている葉っぱに泣く。そんな日々を生きてきて、私はずっと生きてきた。
もうそろそろかな。今日の限界はここだ。推敲して終わり。推敲して終わり。
使えるところは一つもない。かもしれない。何も感じない。かもしれない。私もそう、かもしれない。私はそれでもいいと思う。それでもいいと思う。否定するも肯定するももう少しあとにすればいい。
それぞれの詩歌、のようなものにはそれぞれの、それぞれのテーマや著作や哲学者、それぞれそれぞれぶら下がり、それでしゃりしゃり鳴っている。風鈴。それは一つのボリュームで、物量で、嵩で、だからこそ私は書き及ぶことなく、私は一人で、いや二人で生きている。書く私。推敲する私。ぶつぶつ言いながら料理するあなた。