推敲のときに困ること

私が推敲のときに困ることについて書いてみよう。

ちなみに他の人の参考になるかはわからない。なぜなら他の人がどのように書いているかを知らないからである。

私がどのように書いているかを簡単に確認しよう。私は基本的に一つ前の文章に注釈するようなスタイルで文章を書いている。この「一つ前の文章」というのは私の一つ前の文章かもしれないし、他人の文章を「一つ前の文章」として存在させているかもしれない。いや、実は後者の特殊な形態が前者であると言えるかもしれない。だから、モットー的に言えば、「ある文章を一つ前の文章とするような文章を書く」のが私の文章の書き方なのである。

この書き方を抽象化するとすれば、A という文章を書くことによってA という文章の前段としてBという文章が立てられるような文章を私は書いているということである。形式的に言えば、形としてはB→Aという展開で文章を書いているのだが実際はA→Bという展開を作ろうとして文章を書いているのである。私は。

これは私の書き方を特徴づけるとすればこのように言えるというだけで、普通にX→Yという展開を作ろうとしてX→Yという形が生まれることも大いにある。ここでわざわざそのように特徴づけたのは私の困りごとはここで特徴づけられた書き方、そして推敲の仕方に由来すると思われるからである。また、書き方や推敲の仕方にある種の偏り、私の癖のようなものが現れていると思うからである。

例えば、かなり単純化して、私によって書かれた(らしい)文章をA→D→G→J→Mというふうに表現しよう。(「らしい」をつけたのは三つ前の文章で書いた「実は後者の特殊な形態が前者であると言えるかもしれない。」ということがとても重要なことであると私は思うからである。)Aなどの記号は一つの文章群を意味している。ここではとりあえず「段落」と呼ぶことにしよう。Aなどの記号は「段落」である。そして、私の文章のスタイルからすれば、DはAを「注釈する」もの、GはDを「注釈する」ものであることになる。(ここで累積はするのかという問いがあるかもしれない。例えば、GはDだけでなくAにも「注釈する」ことになるのかという問いである。正直なことを言うと、私はこの問いがあること、そしてラカン的な精神分析の意味理論、ソシュール的な意味理論、現象学的な意味理論、ウィトゲンシュタイン的な意味理論、デリダ的な意味理論、それぞれがやいのやいの言ってきて、私はどうにも動けない。金縛りにあっている。だから今日はとりあえず金縛りの原因としてこの問いを提示するにとどめたい。考えたい人がいたら考えてもらったらいい。)以下同様である。そして、それらが一旦終わったらA→D→G→J→Mという文章群-群が生まれるわけである。(ここでの「文章群-群」という表現は「ここではとりあえず『段落』と呼ぶことにしよう」という限定の「とりあえず」を浮き彫りにしている。群をどのように閉じるのか。それがここでの問いである。そしてそもそも「閉じる」を「群」のレベルで、「群」という概念で捉えるのはなぜか、という問い、それがここでの問いの背景にはある。ちなみにこの、丸括弧のなかで行われていること、それこそ「注釈する」ことはこの文章の全体に関わることばかりである。おそらく。)

そして、私は書いた文章を推敲する。しないときもあるがそれはかなり特殊な場合だけでほとんどの場合は推敲する。推敲というのはA→D→G→J→Mという文章群-群をA から始めてMまで辿るということであり、その群(文章群と文章群-群の差異をどう考えるかはとても難しい問題である。なのでとりあえずここでは概念の最後が「群」で表現されているもののすべてを「その群」という表現で捉えようとしている。)をより豊かなものにしようとすることである。そしてその「より豊かなものにしようとする」ことの一つに「注釈する」ことがある。(ちなみに他には誤字の修正、論脈の設定、ツッコミ(批判や疑問、反抗など)がある。ちなみに「誤字の修正」以外のことは「注釈する」と範囲を同じくする場合も大いにあると思われる。また、「誤字の修正」においても特殊なケースにおいては範囲を同じくする場合があると思われる。例えば、最近書いたもの(「誤植から二重性について考える」)では『25年後の東浩紀』の1刷の141頁にある「だか」という誤植が「だが」にもできるし「だから」にもできるということから文章の群化(こういう専門用語があるわけではない。なんとなくそのように呼んでみる。)について考えた。これは「注釈する」の特殊な形態であると考えられるし、論脈の複数化、ツッコミの無効化および活性化としても考えられるかもしれない。併せて読んでいただけると面白いかもしれない。)

ここで注目していただきたいのは、私はA という文章群、Dという文章群、Gという文章群、Jという文章群、Mという文章群を前にしたとき、それぞれD、G、J、Mを生み出した私のことを忘れてしまっているということである。いや、文章群-群であることを考えると、Aという文章群を推敲するときはそれ以降に書かれた文章群D、G、J、Mでそれぞれどのように「注釈する」が行われたかを私は忘れてしまっているのである。DからJも同じである。唯一Mは終わることがわかるのでそうはならないかもしれないが、それぞれの文章群の接続はその仕方が唯一であるわけではないし、接続を止める/止めないもその仕方が唯一であるわけではないので過去の私が潜在的に接続していたかもしれないと考えることは可能でありそれに対して私がいま屹立と推敲する可能性はある。だから結局Mも少し潜在性を考慮に入れれば結局忘却していることには違いない。

私は困るのだ。Aで「注釈する」ことによって推敲したあとにDでほとんど同じような「注釈する」を発見したときに。「ああ、書いてんじゃん。」と思って。また、意欲的なときは「この二つの注釈はちょっと違う。何が違うんだろう?」と思って。潜在性が開かれ、接続の別様性が聞こえてきてしまうのだ。そして、私は、書くというよりもむしろ「読む」に移行してしまう。その潜在性、別様性を愛することに移行してしまう。そうすると推敲することは不可能になるので結局私は「私が書きたかったのはこういうことだろうなあ。」というフィクショナルな私を作ったり、ほとんど「誤字の修正」だけになったり、結局推敲することは叶わなくなるのである。

結局この困りごとは解決しない。しかし、ここでは私の癖が抉り出されているように思われる。その癖というのは文章の接続を別様であり得ると考える癖、そして文章を群として考えてざわざわさせてしまう癖、この二つの癖である。私は何も読めないし何も書けない。無限の前でよくわからなくなり、何か有限を借りる。それを繰り返すのだ。しかし、私はそれでいいと思っている。諦めているとも言えるかもしれない。私は私の癖、いや、嗜癖に付き合っていくしかないのである。さらに言えば、私は余裕を持って文章を読みたいのであるから余裕をなくして本筋ばかりを読むことすらできないのである。

私は他人の文章にも「注釈する」。いや、本当の実感を言えば、「注釈する」を「私が書いたものなんで私が一番わかりますよ。」的な振る舞いをせずに行うことが「書く」ことだと私は思っているのだ。ここには私も他人も関係がない。しかし、別様性がどれくらいひしめくか、潜在性がどれだけありありとしているか、それは違う。それで私は他人と私の区別をつけようとしているのだ。私の嗜癖ゆえに。

嗜癖と言ってばかりでは面白くないのでそれが面白くなるようにこの文章を書いた。のだろう。そういうことにしよう。私はそういうふうに「注釈する」ことにしたい。また、これを書いて私は思った。「ああ、私は真に他人が書いたと思われる文章を発見できるのだろうか。」と。ただ、これは救いでもあるかもしれない。私は他人と少しは同じなのだという救い。

最後に少し謎めいたことを言おう。惑わせるためではない。なんとなくそれがこの文章を一まとまりにする唯一の方法だと思ったのだ。

「粘り強い思索に支えられている」という褒め言葉は「粘り強い」を支える中心性を発見したものにしかわからないことである。だから、もしその「思索」を行っている当人がそれを発見していないとすればその人にとっては「粘り強い」わけではなくただ離散的な場所性があるだけなのである。しかし、場所というのは離散的であるからこそ存在できるのである。

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