ネガティブとか考えすぎとか

さてさて、私は本当にネガティブで、私は本当に考えすぎなのだろうか。

ネガティブとか、考えすぎとか、そういうことについて考えたいのだが、どのように始めたらいいのかがまるでわからない。

例えば、「自分はどう考えても無能である」と言っている人は「考えすぎてネガティブである」と言えるだろう。おそらく。ここから考えてみよう。そういうふうに思うのだが、困ったことに私はそう考えていない。しかも、そのように考えることがどのように考えることなのか、それがまるでわからない。おそらく私はこういうことは言っていない。しかし、おそらく周りの人は私のことをネガティブだと言っているし、おそらく考えすぎだと言っている。それはなぜか。何がそう言わせているのだろうか。

私は例えば、「衝動的に死ぬかもしれない。前よりもその衝動にブレーキをかけなくなってきている気がする。」などと言っている。これは私にとっては真実である。そうか。これをわざわざ言うことがネガティブに見えるのか。しかし「これをわざわざ言うことがネガティブに見える」とはどういうことなのだろうか。

仮に私がこのように思ったとして、それを心の中に留めておいたとして、そうすればネガティブであるとは言われないのだろうか。

まあ、言われないだろう。しかし、私は振る舞いからそれを滲ませるかもしれない。上のようなことを直接言わないとしても間接的に言っていることになることは充分に考えられる。その場合は言われるだろう。

困ったことに私も周りの人が私に対してネガティブだと思っていると思っているだけである。たしかに直接言われたことがあるにはある。「あなたはネガティブだ。あなたは素敵なのに。」と言われたことがある。しかし、私はそのことによって「私は本当にネガティブなのか?」と思っているのだろうか。言い換えれば、周りから「あなたはネガティブだ。」と思われているだろうと思っているのだろうか。どうも私にはそのようには思えない。しかし、そのようなルートしかいまのところは思い描けない。私は私に「あなたはネガティブだ。」と言わないからである。

視点を変えて、私が他人に「あなたはネガティブだ。」と言うならどのような場合か?ということについて考えてみよう。

私はそういうことを言わない。きっと誰に対しても言わない。それはなぜか。考えてみよう。

例えば、「私はだめだ。無能だ。どうして私はこんなこともできないんだろう。みんなはできているのに。ああ。」と言っている人が目の前にいるとしよう。そしてその人が友人であるとしよう。私はなんと言うだろうか。

想像してみよう。あまり聞いたことがないので難しいが想像してみよう。

想像しにくい。なんというか、私はそういう発言を聞いていない。誰かがそれを言っていたとしても聞いていない。それはおそらく聞く/聞かないが私に委ねられているからである。聞いても聞かなくてもいいから聞いていないのである。だから質問されたことにしてみよう。「なんで私はこんなにだめなんでしょう?」と聞かれたことにしてみよう。それにこたえないことはしないだろう。

おそらく、正直なことを言えばおそらく私は「知らん。だめだと思ったことがない。」と言うだろう。「でも、やらなきゃいけないこともできていないし……」と言われたらどうだろう。「いいじゃん別に。」と言うだろう。このように言ったらその友人はもう私に質問しないだろう。こいつはこたえるきがない、などと思って。しかし、私はこたえられないだけでこたえようとしていないわけではない。私は申し訳ないと思うだろう。それが証拠になるわけではないがそもそもこたえようとしていないなら申し訳ないとすら思わないだろう。しかし、申し訳ないと思ってもこたえられるわけではない。

ここまで考えてみて、私にはまるでネガティブということについて考えることができないらしいことがわかってきた。じゃあなんで私は「あなたはネガティブだ。」と言われるのだろうか。

おそらく二つの可能性がある。一つは私が「ネガティブだ」と考えること自体を無意識に避けている可能性、もう一つは私が考えること自体が「ネガティブだ」と言われるようなテーマに関わっているという可能性である。

後者から考えよう。例えば、私は最近失職した。そんな私が「これからどうしようかなあ。」などと呟くように、そして周りにいる人に聞こえるように言っていたとしたら周りの人はそれを「ネガティブだ」と言うしかないかもしれない。なんというか、考えている中身に対して「ネガティブだ」と言っているというよりも呼応に近いものとして「ネガティブだ」と言っているのかもしれない。私はおそらくそういう呼応をしない。いや、できないと言ったほうが精確だろう。私はそういう呼応をできない。しかし、みんなはできる。いや、できる人がおそらく多い。もちろん、その呼応においてなんでも言っていいわけじゃない。「ポジティブだ」と言うのはおそらくあまり適していないと思われるだろう。だから根本的に間違っていたのかもしれない。さらに言えば、このように考えるとき、「考えすぎだ。」ということも少しわかる気がする。なぜなら、失職は決定的に、いや、精確には将来の展望がまるで開けていないことは根本的にネガティブなことであるからそれについて考えることが過剰になるとネガティブな度合いも過剰になるという判断が「考えすぎだ。」ということにはあると考えられるからである。その場合、「考えすぎだ。」というのは「その場合は過剰に行為することはよくないだろう。」ということであることになるだろう。

ここで急に展開が早くなったのでびっくりした人がいるかもしれないが、整理しておくと、「ネガティブだ」というのは私の現在の状況に対する判断であり、「考えすぎだ」というのは私の現在の状況に対する行為における度合いに対する判断であることになるだろう。

で、私はその判断に与しないというよりもその判断自体に与していないと言えるだろう。ここで重要なことはここでは話が少しずれているということである。いや、おそらくかなりずれている。数の問題ではないが二つもずれているからである。一つは「判断の内容/判断すること自体」、もう一つは「(与する/与しない)/(与している/与していない)」というところがずれている。私はどちらも後者について考えているのに対して周りの人?誰かは前者について考えている。そういうずれがここにはある。

さて、そろそろ本題に入りそうなのだが映画を観にきて、さらにはそろそろ始まりそうなので一旦携帯を閉じなくてはならない。ただ一つだけ手がかりを作っておこう。いや、その前に眼鏡を準備しておこう。眼鏡を拭いた。

眼鏡を拭いたら忘れてしまった。「考えすぎる」というのはどうしようもなく反復してしまうということである。私が「衝動的に死ぬかもしれない。前よりもその衝動にブレーキをかけなくなってきている気がする。」というのは「どうしようもなく反復してしまう」ようなことではない。しかし、「死」は「どうしようもなく反復してしまう」ことなのである。おそらく。だから私はそれを否認している。私はそう思っている。しかし、おそらくそうは思われていない。私はそのことで、むしろそのことで孤独なのである。これはネガティブなのだろうか。むしろポジティブなのではないだろうか。わざわざネガティブとかポジティブとか言うのなら。始まる。では、また。

『ミッシング』という映画を観た。すごい映画で当分消化できそうにない。そして、その消化のためかはわからないが当分ものを考えられそうにない。電車とバスで帰るので書けそうになったら書く。

感想を書こうとするとき、私は私が嫌になる。手法に拘泥することで私は私を守ろうとする。そしてまた、それを隠そうともする。それが嫌なのである。自分に引きつけすぎること、イメージの対応を喜ぶこと、構造に安らぐこと、それは別に嫌ではない。悪癖かもしれないがそれは嫌ではない。それでも私は私が嫌になる。それでも、私は私が嫌になる。

これが本当の自己嫌悪である。と、活用することもできよう。私にはそういうある種の賢さとある種のせこさがある。それは別にいい。けれど、とりあえずそういうことはしたくない。ここまでにとっては完全な異物である。そういう受容をしたい。

もし隣に誰かがいたら私はぺらぺら感想が言える。しかし、幸いにも隣には誰もいない。知らない人がいるだけである。それは幸福なことである。

とりあえず読み直すことにしよう。

読み直してみて思ったことはいくつかあるが、単純なことで言えば、「衝動的に死ぬかもしれない。前よりもその衝動にブレーキをかけなくなってきている気がする。」と言っている人は明らかにネガティブであるということである。なによりもその自明性が迫り上がってくるのは「前よりも」というところである。ここには死の衝動と呼べるような衝動が強弱は別にして継続していることが見てとれる。そして、それは「死にたい」に見えるだろうからそりゃあ、ネガティブであるだろう。しかも、その継続は「考えすぎる」に該当するだろうから、そりゃあ当たり前に「ネガティブだ。考えすぎだ。」と言われるだろう。しかし、それは思い違いである。特に、私は別に「死にたい」と思っているわけではない。「死ぬかもしれない」と思っているだけである。この違いが伝わらないことこそが真の問題なのである。おそらく。

あと、ここまでで残っているのは「なんで私は「あなたはネガティブだ。」と言われるのだろうか」という問いにおける「私が「ネガティブだ」と考えること自体を無意識に避けている可能性」を考えることである。しかし、これに関してはおそらくここまでの話である程度こたえているだろう。簡単に言えば、逆に私はそれをまったく避けていない。もう少し言えば、私はネガティブとかポジティブとかが干上がったところまで来てしまっている。これは自己弁護だろうか。仮に自己弁護なのだとしたら、その振る舞いを強調して「逆にどうしてみんなこのようなことを考えないのだろう?」と問い返すこともできるだろう。別にそんなことはしないが。しかし、それくらいしか私にできることはない。

本当にそうだろうか?君はもっといろんなことを考えられるのではないだろうか?そのなかでわざわざ「死」について考えるのはなぜなんだい?みんなはこんなこと問わないだろう。そしてそれをなんとか埋め合わせているのだ。「ネガティブだ」とか「考えすぎだ」とか言って。それは優しさである。そして君はそれに甘えているだけなのではないだろうか?それはそれでいいが、それで真綿で首を絞められているような感じがするなら君はちゃんと甘えるか、ちゃんと考えるか、どちらかをしなくてはならないだろう。そして君はおそらく後者を選ぶだろう?それをせずに「どうにもわからないのだ。」と言っていても仕方ないだろう?これはたしかに扇情であり誘惑である。しかし、私は本当のことを言おうとしている。君はこの「本当のこと」に反応してまたつまらない哲学もどきを開陳するのかい?

これがおそらく真実の問いである。私に向けられた、そういう問いである。これにこたえあぐねて、応えあぐねて、答えあぐねて、それでそれを正当化しようとしているのである。正当化しようとしているのはなぜか。それはおそらく私が私の思考に納得していないからである。私は賢ぶった私やせこい私も好きではある。しかし、どうしようもなく考えたくなる私はもっと好きなのである。

私はなぜ「死」について考えるのだろうか。それはおそらく「死」が怖いからである。肉体的なそれも精神的なそれも、どちらもどうしようもなく怖いのである。

本当にそうだろうか?どうしてそれが怖いのかを教えておくれよ。こたえられないからって死ぬこたあない。別にこたえられなくたっていい。いつかこたえられるかもしれないし、そもそもこたえられない問いなのかもしれない。別にこたえられない問いだってことにしたっていいよ。別に、いいよ。

やっぱり私も理想的な生き方みたいなものを描いているのだろうか。私はああいう、悩みは理想と現実のギャップに由来する、みたいな言説、ああいうのが嫌いなのだ。

それが嫌いな理由を教えてくれたまえ。

「理想と現実のギャップ」って言うけど、私には「理想」も「現実」もわからないからである。そして、それなのに「理想」も「現実」も半ば決められているからである。

「決められている」?君が決めているだけだろう?

たしかにそうだ。しかし、それにある程度は則らないと話は通じない。

どうして話を通じさせる必要なんてあるんだ?

たしかにそうだ。しかし、私はやっぱり話したいのだ。

どうして?

それはわからない。しかし、話すために私は私を偽りたくないのだ。私の欲望はたしかに、おそらくはよくわからないだろう。そしてそれをみんなに通じるように整えようとも思わない。私はみんなのような欲望を持つことはできなかったのである。できないのである。いや、みんなではないか、私はよく「欲望が持てない」と言うが誰が欲望を持てているのだろうか。私はもしかすると「欲望が持てる」みんな/「欲望が持てない」私、という幻想を作っていたのかもしれない。

君はなんだか安寧に至ろうとしているけれど、私にはなんだか嘘っぽく思える。もし欲望をどうしようもないものだとするなら君にどうしようもないものなんてあるのだろうか?私はそれを知らない。これは意地悪で言っているんじゃない。本当にわからないのである。

もちろん、私にそういうものはないかもしれない。しかし、私はどうにかそれを作ろうとしているのである。

生きるために他人を利用するのかい?

そう。やっぱり私の奥底にはそういう倫理があるんだね。

納得した感を出して終わりかい?本当に納得しているのかい?

いや、まだ納得はしていない。どうして映画に対してはいつかわかればいいとか、いつかわかるとか、そういうふうに素朴な楽観を発揮できるのに私自身に対してそうは思わないんだろう。これは不思議なことだ。

たしかにそうだ。やっと通じ合えた気がするよ。まあ、でも、それは不思議なことではない。私自身は作品群によってしか見えてこないが作品は群を作ることを必要としていないからだと思うよ。

まあ、それはそうなんだけどさ、それは大まかに言えばそう言える、ってだけでしょ?

まあ、それはそうなんだけどさ、それは大まかに言えばそう言える、ってだけでしょ?

私は何も責めない。マッチョだからそうなのか、はたまたマッチョとは別にそうなのか、私にはわからない。私の中にはたくさんの問題が存在している。一つ一つ屹立している。私はやけに遠くから見ていたからその一つ一つが繋がっているように見えていたのかもしれない。もしくはやけに近くから、おそらく山の中から空を見上げたり街を見下ろしていたりしたからきっとわからなかったのである。

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