「『読んでいない本について堂々と語る方法』について堂々と語る」について辿々しく語る
さっき「『読んでいない本について堂々と語る方法』について堂々と語る」という文章を書いた。そして投稿した。
ここではその文章を一読、そして「訳者あとがき」を二読(一読を二回した。)したことによってわかったことについて書こうと思う。
私はこの本を書物を客観的なところから主観的なところへと移動させることによって読書を変革する本として読んだ。それは私の文章からも明らかである。そして、その変革が結局「位置を明確にする」という地図制作的な方法によるものであったことに私は疑問を呈していた。これも私の文章から明らかである。そこで用いられたのは「身体」というキーワードであり、その後ろにはレヴィナスがどどんと登場していた。
ただしかし、私はそもそも気になっていたのだ。「客観/主観」とはどういう対比なのか?ということが。これは少し「本と距離を取る」(今回は正確に言えば「文章と距離を取る」だろうが)ことによってわかったことである。
私は規範とそれを支えるものの挿げ替えを目指したものであると理解していた。『読んでいない本について堂々と語る方法』を。それも間違いではないだろうが、それよりもこの本では「客観/主観」とはどういう対比なのか?について考えられていたのである。
訳者の大浦は「書物は、物理的書物とそれを読む者との"あいだ"にある。あるいは、本書により即した言いかたをすれば、書物は、それを話題にする者たちのあいだにある。書物は「出会い」の産物なのである。<中略>このことは、書物が、読者ひとりひとりの内面の憧憬や不安を宿す(狂気すら秘めた)個人的存在であると同時に、すぐれて社会的存在でもあるということを意味している(先述した「権威主義」もこのことと無縁ではない)。<読む>から<語る>へと移行するにつれてこの社会的性格は強まるともいえるだろう。」(『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫)287頁)と指摘している。この「社会的性格」の強まり、そのプレッシャーのもとで、そしてそれをエネルギーにしてこの本は書かれている。しかし、私はそのプレッシャーをうまくエネルギーに変えられない。変えられる自信がない。そもそも、私はその「社会」とやらに参加する、その身体がないということが問題だと思うのである。
私の奥には千葉雅也の「時代全体が、身体を喪失しているんですよ。その中で、身体を失ってしまった人間が右往左往している。」(『欲望会議』(角川ソフィア文庫)233頁)という指摘がある。確実に。亡霊のように彷徨う誰かに、そして誰かに、しかし身体を貸し切らず、イタコにならないこと。降霊しないこと。それこそが「社会」とやらに参加する条件なのではないか。そういうことに私は共感している。
もちろん、「位置を明確にする」こと自体が一つの身体を作るとも言える。ただ、そのためにはみんながテクスト群に、そしてその解釈に参加していることにしなくてはならない。ただ、そんなことはできないし、できるとすればそれは身体の喪失の次元を見誤ることになるだろう。
まず、私はレヴィナスの身体を借りる。さらにはその借り方としても地図を作るのではなく歩くこと、見ること、書くこと、そして読むことによって借りる。そういうふうな決心を、そして明日には忘れてまた勝手に読んでいそうな私を、私は愛している。
一読した。いわゆる推敲である。さすがに身体や千葉雅也の話がわかりにくすぎると思ったのでアフォリズムに頼ろう。千葉雅也は次のように述べている。
引きこもることこそが対話の条件だ。
『欲望会議』(角川ソフィア文庫)261頁
そして「引きこもる」ためには身体が必要なのだ。固有の傷を抱えた身体が。心体が。
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