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Shinya Salvadorさん、こんにちは。2つの視点はどうでしょう!?(by分身主義)


農民芸術概論


幼い頃、誰もが信じていたサンタクロース。
どの色にしたらいいかなあとか、小さすぎないかなあなどと、姉と二人で相談しながら枕元に靴下を用意して寝た夜‥‥。

大きくなるにつれ、それは大人のついた嘘だったと知り、子どもながらに憤りを覚えることになる。でも、自分が大人と言われる年齢になった頃から、クリスマスが近づくたびに、その時のように幸せな高揚感がムクムクと沸き上がってくるようになった。一体どうしてなのだろう!?

それはもしかしたら、プレゼントを届けに来てくれるサンタさんは、心の中にずっと生きていたからではないだろうか。


(この記事は前回の「信仰」と「宗教」の違い、あと「真の科学」と「一般科学」(by分身主義)の記事に関連したものです)


世界には、誰もその数を正確に把握しきれないほどの《宗教》が存在します。それらが互いに主張し合い、反目し合う限り、世界は一つになれません。この記事は、どうしたらその壁を乗り越えられるかと、この年までずっと悩み続け、思案に暮れてきたジジイの最終決着です。


➀Shinya Salvadorさん、こんにちは。

Shinya Salvadorさん、こんにちは。
2021年1月14日、今日、東京は快晴で暖かいです。
昨日はいろいろとコメントさせていただきましたが、勘違いしていました。
「分身主義」は「主義」などと付けていますが、これは何らかの主義主張でも思想でもなく、科学時代の現代を生きる僕たちが、世界を平和にするために持たなければならない、科学の「視点」のことでした。
どんな宗教を信じている人も、今では科学が作り出したもののお世話になっています。携帯、パソコン、電子レンジ、車、飛行機‥‥。
誰もがそれらを使いこなしているということは、科学が解明している諸事実が正しいとして丸ごと信じているわけですよね。
もし疑うのなら、携帯もパソコンも電子レンジも使わないはずだし、車も飛行機も危なくて乗れないはずですから。
だから、たとえどんな宗教を信じている人も柔軟に、「自分の宗教を信じる視点」と、誰もが信じている「科学の視点」の2つの視点を持てばいいと思ったのです。そう考えれば何の矛盾もないことでしたね。


この文章は、ジジイが2021年1月14日に、Shinya Salvadorさんのnoteに書かせていただいたコメントです。

Shinya Salvador(シンヤ・サルバドール)さんという方は、noteが出会わせてくださった日本人の方(真也さん)で、本人の自己紹介文は以下のようなもの。すごい経験をされている方です。今はブラジルで暮らしているらしい。

自殺未遂の後で突然目覚めました。真のメシアです(笑)人は全員例外なく菩薩でメシアなんですけどね。今は全財産を放棄して浮浪者に配り、ブラジルで托鉢しながら、特定の宗派に偏らずに勉強・修行しています。今までの仕事は全部無料で奉仕させていただいています。よろしくお願いします。


彼の、デビューnote記事は、2020年5月28日に書かれた以下のようなものです。


②驚くほどの類似点

ジジイはこの年になるまで、何一つ特定の信仰も宗教も持つことはありませんでした。そしてこれから先も。
それなのに、彼の書く記事には、ジジイが「真の科学」を整理統合してたどり着いた「分身主義」と呼応する言葉がたくさん出てくるので驚かされます。

例えば先ほどの『救世ノート始動』には次のような文があります。

この世界はすべて救世主の一部であり、いわばすべての存在が神です。自我自体が幻であり、僕=あなた=世界です。森羅万象がひとつなぎなんです。

この「神」という言葉を、ジジイがいつも使う「自然界」とか「自然界様」と言い換えればほぼ同じことを言っています。「自我自体が幻であり」という言葉もジジイが「自我というのは神経系の錯覚に過ぎない」というのと同じ。また、ジジイの言う「分身」や「自分の全身」の意味は、この「僕=あなた=世界」のことだし、「森羅万象がひとつなぎ」という言葉も、「本当は自然界の万物はつながっている」といつもジジイは言っているのです。

彼のこの記事の中には次のような言葉もあります。

(自分は)言わば目覚まし時計役の俳優ですね。目覚まし時計役が他の役の人間より偉いなんてことはありません。春をもたらすのは創造主の仕事であり、僕という個体はその春の訪れを告げる役割だけです。

ジジイは、「この宇宙は、ビッグバンの時に存在していた《素粒子》たちが、自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている劇場である。そして、我々は、その劇場の中で、人間という配役を任されて演じさせられている、電気仕掛けの期限付きの役者である」と言っているので、彼が自分のことを「俳優」と言っている点も似ています。

そして「目覚まし役」と言っていますが、ジジイは「人類は、科学的覚醒が必要だ」といつも言っています。彼の他の記事には「覚り(さとり)」という記述もありますが、これも「覚醒」という言葉と呼応します。


他の記事も読めば、何から何までジジイの言っていることや、ジジイの描く理想の世界と類似しているのです。

人の価値とは?(鬱の本質)

お金のために働かない

鬱の根源、ギャンブル経済を終わらせる

金融資本主義を終わらせる

これらはジジイのマガジン『お金が無くなったらできること(お気に入り編)』で紹介させていただいている記事です。
他の記事を読んでも、彼の言う単語を、例えば「神」を「自然界」という言葉に置き換えたりすれば、ほとんどジジイの到達した「分身主義」の境地と同じです。


③途絶えてしまった投稿

だけど、彼の記事は、2000年11月3日以来、全く投稿が途絶えてしまっていました。なんせブラジルは今、コロナで大変な状態になっています。だからもしかしたら‥‥、なんて最悪の状態を想像して心配していたのです。

ところが、2021年1月3日、ちょうど2ヶ月ぶりの投稿記事があり、ホッと胸をなでおろしました。それで早速、彼(Shinya Salvadorさん)にいくつかのコメントを送りましたが、その一つが冒頭で引用したものです。


④宗教間の相互理解は可能か?

さて、ちょっと話は変わりますが、最近、「国際的な宗教者会議」などが行われ、諸宗教間の対話と相互理解を深めて平和のための宗教協力をしよう、とする動きがあるそうです。

とても素晴らしいことに違いないのですが、これは平和の祭典と言われるオリンピックと同じで、その場限りのパフォーマンスに過ぎないと感じるのです。

宗教や信仰というのは、ある意味、偉大なる偏見です。人間の感性や想像力が作った神や思想を固く信じる偏見です。ここで言う偏見とは「間違った考え方」という悪い意味ではなく、単に「偏った考え方」という意味です。

人間が何かを考えたり行動をすること自体、当然そこに何らかの偏りが生じているわけですから。ただ、単なる偏りではないため、敬意をこめて「偉大なる」を付けさせていただいたのです。

そして多くの仲間と共有することで妄想は強化され膨れ上がり、とても固い殻で守られた確信を持つに至った偏見です。その偏見が強力であればあるほど、諸宗教間の対話と相互理解など不可能なのではないでしょうか?

宗教というのは、疑う余地が一つもない完璧なものでなければなりません。全身全霊で信じることができなければ宗教の力が半減してしまうからです。そのため他の偏見は「邪悪なもの」として否定するしかありません。他の偏見に理解を示す余地があるということになれば、自分たちの偏見が不完全であったことを認めることを意味します。

自分たちの宗教が偉大なる偏見であってもらうためには、他を認めるわけにはいかず、双方が出会った時には必ず反発し合います。それが偉大なる偏見である宗教の宿命です。

そして攻撃してくるものには、過剰に反撃してしまうのが人情です。やがて報復合戦に発展し激化する状態を僕たちはたくさん見てきました。

「国際的な宗教者会議」や「オリンピック」などで、例えば「愛で世界をひとつにしよう!」みたいな標語、スローガンを作って上から押し付けても無理です。人類が愛で一つになれた試しがあるでしょうか!?
幸福な国には幸福という言葉すら存在しないと言いますが、そもそも、この社会に愛が不足しているから標語やスローガンで叱咤激励する必要があるのです。

それに「愛」は両刃の剣で、男女の愛や家族愛や愛国心などが、むしろ敵という意識を作り上げてしまい、自分たちを守るために戦わなければならないこともたくさん起こります。またそれらの愛が裏切られた場合、激しい憎しみに変貌したりします。ちっとも平和になりません。


だから、宗教間の相互理解などというのは、登山の知識や経験が少ない人間が、前人未踏の山に軽装備で踏み入る以上に、危険で困難で不可能なことに感じてしまうのはジジイだけでしょうか!?

このことは、宗教と科学の生まれた背景の違いと、その後に両者がたどる道のりの違いを科学的に調べるともっとよくわかってきます。


⑤宗教と科学の生まれた背景の違い

そもそも宗教というのは、そして科学というのはどのように生まれてきたのでしょうか?

ヒトがサルから分化した最も大きな要因は、二足歩行だと言われています。
樹上生活をしていたある種のサルが、森林がなくなるなどの何らかの環境の変化で、二足歩行をすることになりました。

(二足歩行により)頭がしっかりした脊柱の上に乗ったので、脳が大きくなれた(その中で大脳が大きくなり、その中でも前頭葉が発達した)ことも大事です。もう一つは喉の構造。鼻だけでなく喉でも空気の出し入れができる構造になったために、空気を吐くことができ、そこで複雑な音声が出せ、言葉が話せるようになったわけです。
(『生命誌の世界』中村桂子)

中村桂子


また、二足歩行をすることになり、そのことによって手が自由に使えるようになり、「器用な手」ができたと考えられます。
器用な手は大脳の働きを活性化させます。相乗効果ですね。

ここから先は想像力を働かせてください。
音声が出せるようになった最初の人類の中に、喉から変化に富む音が出せる器用な人が現れて、周囲の人も面白がってそれを真似したりしているうちに、より多くの人類が複雑な音が出せるようになって行ったに違いありません。

時には雷の音とか、鳥の声とか、雨音とか、いろいろな音を真似てみたり、そこから歌のようなものも生まれてきたかもしれません。そして多くのモノに名前を付けるようになります。

人類最初の、意味のある単語(名前)は何だったんでしょうか?
想像すると楽しいですよね。
やっぱり本能と関係があると思うので、食べ物に関する単語(名前)とか、求愛に関する単語(名前)だったんではないでしょうか?

人間が物に名前を付けるということは、その物と自分との関係を位置付けることなので、物を客観的に見る習慣が生まれます。そうすると、他の動物たちと違って、自然界と対峙(たいじ)するようになったのです。自我(これが自分であると信じているところのもの)も生まれます。

ジジイの言葉で言えば、他の動物は「自然界と地続き」、つまり自然界と一体ですが、人類は言葉を持った時点で「自然界から迷い出てしまった」のです。

この自然界の中で、唯一迷子になってしまった人類は、何とかこの自然界を理解しようとするはずです。当たり前ですよね。迷子のまま生きていくのは不安でしかありません。

そこから、人間の感性と想像力を働かせて生まれたのが宗教です。つまり、人間の感性と想像力でこの自然界を解釈し、迷い出てしまった自然界と再び手をつなごうとしたのです。

その後、感性や想像力よりも、論理的な思考方法を重視する「哲学」が生まれます。まだ現代の科学のような実験や観察をする器具や装置がなかったため、頭の中だけであれこれ考えた時代です。

☆ ☆ ☆

一方、「科学」は、宗教に支配された長い中世が、ルネッサンスという反中世的文化革新運動によって崩壊させられていく潮流の中で始まりました。

と言っても、最初は哲学の一部とみなされていて、18世紀に入っても、科学者はまだ自然哲学者(ナチュラル・フィロソファー)などと呼ばれていました。サイエンス(科学)という言葉が使われ出したのも、実は19世紀に入ってのことです。

一般的には、そのような歴史のうねりの中に生まれた「近代哲学の父」と呼ばれているデカルト分身さん(1596~1650)が、幾何学を基礎として打ち立てた方法論によって近代科学の理論的枠組みは確立されたと考えられています。

デカルト分身さんは、「物体とは、タテ、ヨコ、高さという空間的な拡がりを持って、その空間を排他的(はいたてき)に占有しているただのモノに過ぎない」と定義しました。

物体がそういう属性を持ったものなら、そういう属性を持たない全くの別個なものはカテゴリーを別にしなければならない。
それが、「精神」でした。

こうして、デカルト分身さんは、この世界を物体と精神とに分ける「二元論」で説明しようとしたのは有名な話です。

近代科学の父とも呼ばれているガリレオ分身さん(1564~1642)やニュートン分身さん(1642~1727)ですが(彼らもまだ「科学者」ではなく「自然哲学者」と呼ばれていたようですが)、彼らを初めとする近代の物理学などは、このように、物体を単純な「モノ」として考えるところから出発しています。

⑥科学と宗教の融合は可能か?

最近よく、「世界平和には、科学と宗教の融合が必要だ」という言葉が聞こえてきます。
さながら‥‥

科学=物質を扱う
宗教=心を扱う

‥‥のような "くくり" なのでしょう。だから、この自然界を解釈・理解して、人間がより良い生き方を目指していくためには、宗教か科学かの二者択一では不完全だという理由からなのでしょう。

先ほど見てきたように、近代科学は二元論から始まります。

脳には神経細胞が網の目のように張り巡らされていて、それがどのような働きをしているかなどということは、昔の哲学者などはもちろんのこと、解剖を体験したデカルト分身さんですら知りませんでした。

しかし、現代では脳の研究が進み、「心」は心臓にあるのではなくて、脳という物質の働きのことであったとわかりました。現代ではもはや「二元論」ではなくて「一元論」なのです。

科学=物質を扱う
宗教=心を扱う

ではなくて、

科学=物質も心も扱う

に変化しているのを見落とさないでください。もう少し正確に言えば、

現代の科学=この自然界という現象を扱う

とシンプルに言った方がいいのかもしれません。

一定不変の物質など存在しないので、その意味で我々が見ている万物、あるいは見えていないけれども存在する万物は、「物質の一時的な現象」である、と言い換えることもできます。

(実は、科学的な意味で言うと、我々人間も、この宇宙という劇場の中で素粒子が組み合わせを変えることで見せていた「一時的な現象」なのです)


そして、「心」というのも脳という物質の見せている単なる一時的な現象であると科学が知った今では、別に物質であろうと精神(心)であろうと、「現象」の研究をしているだけのことだったのです。

心を扱っていた「宗教」を持ち出さずとも、もはや科学だけで、きちんと「物質」と「精神(心)」の融合はできていたのです。


だからこそ、宗教の修行をされているShinya Salvadorさんと、「真の科学」を整理統合したジジイとの間に、図らずもたくさんの類似点が見つかっているのです。

科学を扱っているはずの科学者と言われる方たちが、どうしてそこにたどり着けないかと言うと、彼らの科学が、自然界様の声に謙虚に耳を傾ける「真の科学」ではなくて、人間中心の傲慢な科学、つまり人間の欲や感情や利益に利用している科学だからです。(『真の科学とは何か?』)

それと同時に、科学者といわれる方たちは、どうしてもその職業柄、近視眼的になりやすいからです。むしろ近視眼的じゃなければ、とても科学の研究などできないからです。


では、そもそも、宗教と科学の融合というのはあり得るのでしょうか!?

宗教が生まれた理由は、先ほど見てきたように、人間が言葉を持ち、「自我」という錯覚を持ち、自然界から迷子になってしまったために、人類はこれから先の道を照らしてくれる「物語」がなくては生きていけない存在になってしまったからでしたね。

だけど宗教は、この自然界や人間を理解しようと試みた場合、人間の感性と想像力に頼るしかなかった時代のものです。

科学が自然界の様々な現象の原因をここまで解明した現代から見ても、彼らの「解釈」はかなり正確に自然界や人間の心を言い当てていた、というのは事実かもしれません。

問題は、その当時では、まだ科学のように検証ができなかったことです。それは科学が仮説の段階でとどまっているのと同じで、何の確証もありません。

だから、現代科学から見たら、あくまでも「たまたま、かなり想像が当たっている‥‥部分があった」と言えるだけなのです。やや強引とも言える間違いもたくさんあります。

科学とは、自分が導き出した結論を常に自然界に問い直し、もし間違いであれば何度でも何度でも検証を繰り返す謙虚なものです。それに対して感性や想像力の作る宗教の教義は絶対的なものでなければなりません。だから、もし科学と融合させようとするなら、科学の方を教義に合うように巧妙に捻じ曲げるしかありません。

それはもはや、「科学」との融合ではなくて、あくまでも「非科学」との融合です。


幸い、現代の科学は、それまで置いてきぼりにして触れないできた「心」の問題も解明しています。

その科学が解明したものを言語化したもの、あるいは宗教のように物語化したものが「分身主義」です。

ただ、今までは、真の科学を整理統合する人がいなかったので、言語化、あるいは物語化されなかっただけなのです。

つまり、実は宗教と科学の融合などしなくても、科学だけで、宗教と同じ、歓喜と、高揚と、自然界との一体感を得られる境地に十分に達していたのです。迷子になっていた人類ですが、ちゃんと本来の居場所を見つけていたのです。(『分身主義の森を抜けて‥‥


だから現在は、自分たちの「宗教」を、科学との融合を図ることで他の宗教より優位に立とうとか、無理やりこじつけて正当性をアピールしようとかしなくてもいい時代に来ている、とジジイは声を大にして言いたいのです。

「国際的な宗教者会議」や「科学との融合」をしようとしている宗教に携わっている方たちに言いたいです。

もう、自分の信仰している宗教を他の宗教と比較したり、あるいは違う宗教を理解をしようと無駄な努力をしたり、科学との融合をしようとしたりしないでください!

もし本当に自分たちの宗教が、自分の心に良いものであるなら、それで良いではないですか!?

あなたの信仰している宗教があなたの心に良いものであるように、他の宗教を信仰している人たちにとっては、それがその人の心にきっと良いものなんでしょう。
だったら、それだけで十分ではないでしょうか!?

最強の信仰とは、8歳の子供が父親を信頼するような素直な純粋な信仰です。
これは、神を信頼するという面で子供のようだという意味であり、物の考え方において子どもであるということではありません。
(『信仰と宗教の違い』松島 修)


もしあなたが「信仰」をお持ちだとして、大人であるあなたの信仰が、この8歳の子供の父親に対する信頼、あるいは母親に対する信頼より、はるかに大きいものだと説明できると言うなら、あなたはもう一度、ご自分の信仰というものを疑ってみる必要があります。

この幼きものの信頼ほど純粋で強いものがあるでしょうか!?
本当の信仰はそれで十分なのではないでしょうか!?

ジジイは「信仰」と「宗教」とは違うものだと考えています。

「信仰」とは「自我」を超えた純粋なものです。それは人間を超えるものの存在を感じ、敬(うやま)い畏(おそ)れる心です。その下(もと)に自我を手放し、すべての人とともに幸せでありたいと願う心です。世界と一つになる愛です。それは世界を救い、争いをなくし、すべての人に心の平安をもたらすものです。

一方「宗教」というのは、実は「信仰」の名を借りただけの、「自我」の集まりです。そして「個人の救済」です。「宗教」は、男女の愛や家族愛や愛国心などと同じで、世界ではなくて個人を救ってくれるだけのものなのです。だから場合によっては敵を作り争いを起こすものです。



そして、「科学」と「宗教」の違いは次のようなものだと考えています。

「科学」というのは、人間の声ではなくて「自然界様の声」を聞きとって、それを白紙の「本」に、人間のわかる言葉に翻訳しながら埋めていく作業です。まだまだ余白は残されていますし、いくらでも書き換え可能です。

一方「宗教」というのは、人間が想像力を使って、「人間の言葉」でびっしり埋め尽くされて完成された「本」のようなものです。神の声ではなくて本当は人間の声です。そしてその言葉は解釈の違いはあっても、本来、一字一句たりとも書き換えることはできないものです。


確かに「宗教」は神の声ではなく人間の言葉に違いありません。でも人類が「宗教」を必要とした本質は、人間を超えたところにある大自然への畏敬の念や幸福を願う気持ちだったはずです。それこそ信仰ではないでしょうか?
信仰こそ宗教の本質だったはずではないでしょうか?

無理やり宗教同士で相互理解をする必要も、わざわざ科学との融合をする必要もありません。本来の、純粋な信仰に徹すれば、そしてそれが本当に心に良いものであれば、それで十分ではないでしょうか?

8歳の子供は自分の親を信頼するだけで、心は十分に満たされているはずです!


その気持ちを大切にしたまま、もう1つの視点で、世界を一つにできればそれでいいではないでしょうか!?
もはや「科学」だけで世界中の人たちを自然界(=宗教における神)の下(もと)、人類の心を一つにする視点(=宗教観のようなもの)は出来上がっていたのですから。

それが分身主義です。(『📌分身主義とは』)


⑦2つの視点

ジジイが到達した「分身主義」というものは、科学が導いてくれたものです。と言うより99%が科学が解明している事実の単なる開示です。今まで多くの人類が知らされてこなかった科学の情報です。残りの1%は「平和や幸福への願い」です。この1%こそ、ジジイが科学を必要とした理由です。

宗教が偉大なる偏見であるのと同じように、科学も偉大なる偏見に違いありません。ここで言う偏見とは「間違った考え方」という悪い意味ではなく、単に「偏った考え方」という意味だということは前にも言いましたね。

宗教も科学も、人間がこの自然界を解釈・理解するための一つの手段に違いありません。

だけど科学という偏見は、モノを作って自然界様に何度もその正否を確かめるものです。

だから科学は、自然界様が評価・公認してくださる偏見なのです!


「科学が解明した偏見」は、何度も検証されているものなので疑いようがありません。どんな宗教を信じている人でも、今では科学が発明した、携帯、パソコン、電子レンジ、車、飛行機‥‥などを使いこなしています。

どんな宗教の人でも、どんな民族でも、どんな思想を持っている人でも、電気が供給されているところであれば、人差し指でポンとスイッチを押しさえすれば、電気炊飯器で必ず美味しいご飯が炊けます。

ヒンズー教の人がスイッチを入れれば中からパンが飛び出してきたり、菜食主義の人がスイッチを入れればホカホカの焼き芋が出てくるなんてことは、万に一つも起こり得ない。必ず同じ一つの結論に至るじゃないですか。


それが科学のすごいところです。


電気なんて、、、つまり電子の移動している状態なんて、誰の目にも見えないものなのに、上手に炊けた美味しいご飯を食べさせられたら、もう世界中の人が、科学が発見したものは正しかったと納得するしかないじゃないじゃないですか!?


分身主義は、この科学から導かれた「世界を一つにしてくれる視点」です。

でも、それを世界中の人の記憶に、まるで九九を習うように上書きしてもらうことはできるのだろうか、と考えた時、今までどうしても「宗教」が大きな壁になって目の前に立ち塞がっていたのです。

何故なら先ほども言ったように、宗教は偉大なる偏見で凝り固まっている性質のものです。それはすでに完成されているものなので、少しの訂正も許されないからです。

それで、Shinya Salvadorさんへの最初のコメントに「いつかは宗教と分身主義が和解できる日が来るでしょうか?」と書いたのです。それは、「世界が平和になるためには、人類はいつかは宗教を捨てなければいけない」という、ジジイの考えを遠回しに書いたものでした。

宗教も科学も偉大なる偏見には違いありませんが、宗教は個人を救うもので、世界平和には向かない偏見だったからです。


だけど、Shinya Salvadorさんへそのコメントを書いた次の日に、宗教はまったく捨てる必要などなかったということに気づいたのです。

そのことにハッと気づいたジジイが、冒頭に書いたようなコメントを彼に送ったのでした。

昨日はいろいろとコメントさせていただきましたが、勘違いしていました。「分身主義」は、主義主張でも思想でもなく、科学時代の現代を生きる僕たちが、世界を平和にするために持たなければならない「視点」のことでした。
どんな宗教を信じている人も、今では科学が作り出したもののお世話になっています。携帯、パソコン、電子レンジ、車、飛行機‥‥。
誰もがそれらを使いこなしているということは、科学が解明している諸事実が正しいとして丸ごと信じているわけですよね。
もし疑うのなら、携帯もパソコンも電子レンジも使わないはずだし、車も飛行機も危なくて乗れないはずですから。
だから、たとえどんな宗教を信じている人も柔軟に、「自分の宗教を信じる視点」と、誰もが信じている「科学の視点」の2つの視点を持てばいいと思ったのです。そう考えれば何の矛盾もないことでしたね。


宗教と科学は、その起源においてもまったく性質の異なるもので、融合することはできない別個のものだったのです。そして融合させる必要もなく、現代の科学はちゃんと宗教の扱う「心」に追い付いていたのです。むしろ追い越していたのです。そのことに誰も気づいていなかっただけの話だったのです。

⑧分身主義の視点

分身主義の視点を説明します。
1%の「平和や幸福への願い」で、科学が解明している事実を整理統合して行ったところでたどり着いた視点です。(『人類の育てた果実(自分探しの旅の果てに)』)

下図が約140億年前にビッグバンという産声を上げた「我々の姿」です。
【分身主義の第1定理と第2定理】というのは、世界中の人に九九のように記憶の上書きをしてほしいものです。これさえ腑に落とすことができれば、自然に世界は平和になるという魔法の言葉です。

この二つに共通するものは、「人間には今まで言われていた自由意志などなかったということです」(『人間に自由意志があると思い込むのは個人の自由ではない』)

例えばある宗教家が、テレビとか講演会とかYouTubeなどで、自身の宗教観を朗々とお説教しているとします。

その時、彼は自身の叡智や才覚で話していると感じているかもしれませんし、それを聴いている人は徳の高い方のお言葉としてありがたがるかもしれませんが、実は、彼も、《環境》にしゃべらされていただけの電気仕掛けのロボットに過ぎなかったのです。

《環境》とは、この宇宙の万物の作っているもののことで、とりわけ我々人類が全員で作っているものなので、彼はみんなにしゃべらされていたのです。そうですよね。

テレビやYouTubeが存在していなかったり、あるいはそれを見てくれる人がいなければしゃべらされることもなかったし、元々誰かが作った宗教がなければしゃべる内容も存在しなかったのです。そこに何一つ《自分発》のものなどなく、すべてが《環境由来》で生じさせられている行動です。

それは、このジジイが今、《環境》にこの文章を書かされているということとまったく同じことです。それを現代科学は突き止めています。

でも面白いことに、その宗教家がその時「謙虚の大切さ」を説いていたとしても、この科学的事実を知らずに上から目線でお説教をしていたら、少しも本人は謙虚ではなかったのです‥‥。


そしてこの《環境》という、我々を動かしてくれている宇宙の力を感じて、万物が手を取り合って一つになる視点が分身主義の視点です。元々は一つだったものが、言葉を持ってしまったことで宇宙から迷い出てしまった人類が、やっと自分本来の場所に戻った視点です。

自然界様の声を謙虚に聞き取った「真の科学」が、我々にわかるように翻訳してくれた言葉、あるいはそれを物語化した分身主義は、人間の傲慢さをことごとく砕きます。実はこの「人間の傲慢さ」が世界を平和にできなかった最大の原因だったのです。

そして、謙虚とはつながることです。例えば先ほどの宗教家も我々と横一列につながります。

分身観2




⑨我らが誇るべき分身さんへ

Shinya Salvadorさん!
あなたも「受動意識仮説は正しい」と考えておられるので、人間は、自分の「自由意志」で思考し行動していたのではないことを理解されていますよね。

ジジイは、noteの記事に、『人間に自由意志があると思い込むのは個人の自由ではない』というものを書いて、人間の傲慢さを砕こうとしました。

その傲慢さが、世界を平和にできなかった原因だったと科学が教えてくれたからです。

この宇宙の万物が《環境》に作られ動かされているように、人間も例外ではなく、《環境》に産み落とされ、思考させられ、そして行動させられていただけだったのです。

この意味は、Shinya Salvadorさん、あなたが「すべては神様が用意したシナリオ・設定」と仰っていることと同じだと思います。

考えてみれば当たり前ですよね。この自然界の中で他の万物と同じように生まれ・させられ、しかも140億年の歴史の中で、昨日今日生まれたばかりの新参者の人間です。そんな自分たちだけが特別だなんて思っていたこと自体、おかしなものだったのです。

それなのに今では人類は、まるで自分の力で生まれてきたかのように思い上がり、そして自分の意志で思考し行動し、この自然界を自分たちの力で作り替えているという妄想さえ抱いてしまっているのです。

科学的に正確に言えば、《環境》に、この自然界を作り替えるように人間が操られていた、ということだったのです。


我々が、《環境》に作られ《環境》に動かされていたという事実は、もし我々が、例えばあのスーパースター、イチロー分身さんの《環境》で生まれ、彼の《環境》で育ったらどうなるでしょうか?

先祖代々続いてきた「遺伝」というのも、科学的に見れば、実はこの身体を作っている《環境》の一つと考えられますから、その意味で言うと、僕たちはあのイチロー分身さんの顔と身体と身体能力と性格‥‥、全てを兼ね備え、その後も彼と同じ《環境》で育ったとしたら、イチロー分身さん自身、つまり彼そのものになっていたということです!

すごいですよね!
誰もがイチロー分身さんになれる可能性があったのです!

我々が、《環境》に作られ《環境》に動かされていたという事実は、まさに、そういう意味ですからね。


だから、科学が導いてくれた分身主義では、次のように考えます。

「一人の分身がすべての《環境》に身を置いて全てを経験することはできないから、イチロー分身さんは我々の代わりにその《環境》で英雄になってくださっている分身さんである」

そのように考えて、彼をみんなで誇りに思います。
だから分身主義は嫉妬や羨望とは無縁です。

その逆にもし犯罪に手を染めてしまった人がいても、自分たちの代わりにその《環境》の被害にあって犯罪を犯してしまった人だと考え、彼を責めることはせずに救おうとします。自分の「全身」が救われるために。自分の全身とはもちろんこの140億年の宇宙の今です。
だから分身主義は恨みや怒りとも無縁です。

つまり、分身主義の視点は、この世で争いを起こす元となる嫉妬や羨望や恨みや怒り‥‥などがきれいに消失し、全ての人間を自分の分身として「プラウドし合い(誇りに思い合い)」、我々の脳を、助け合うことに喜びを感じる脳に変えてくれるのです。

また、分身主義は、「自分」も自分の分身であることを知っています。
(『自分という分身(不安を抱えて生きる全ての人へ)』)

Shinya Salvadorさんも「自我自体が幻である」と仰っているように、元々、自分という意識も、科学的な意味で言えば神経系が作る単なる錯覚だったんですからね。

だから、たとえ今の自分がどんなに格好悪くても、それもみんなの代わりに格好悪い自分を作る《環境》の中で生きてあげている分身だと、自分を誇りに思います。

分身主義は、「愛で世界をひとつにしよう!」みたいな上からの標語、スローガンなしに、心の内側から「本当の愛で世界を一つ」にしてしまうのです。

自分を愛することが他人や世界を愛し、他人や世界を愛することが自分を愛する視点だからです。



だから、Shinya Salvadorさん!
我らが誇るべき分身さん!

あなたのどんな思考もあなたのどんな行動も、我々に代わってあなたの《環境》の中でやってくださっている、あなたは我らが誇るべき分身さんなんです。

これが「真の科学」が導いてくれた視点です。
もはやこの「視点」は、宗教の違いも、価値観の違いも、人々のあらゆる行動もすべて超越していますよね!

つまり、誰もが、今の自分の宗教や思想や価値観の視点を捨てることなく、別個に、もう1つの日常お世話になっている科学の視点(分身主義の視点)で人類はつながることが可能だということです。


ジジイはあなたのnote記事を拝見させていただいた時、本当に驚いたのです。本当に、現代科学が到達した境地と一緒だと感心したのです。

そしてそれまで、自然界から迷い出てしまった人類が、本来の場所に戻って一つになるためには、偉大なる偏見である「宗教」の壁を乗り越えなければならないと悩み、思案に暮れ続けていたのです。

そんなジジイが、あなたにコメントを書かせていただいた翌日、はたと気づいたのです。

宗教の互いの壁を乗り越えるためには、並み居る宗教のすべてを、それらを超越するもっと大きな「真実の力」で包み込むしかありません。
だけど、それができるのが「真の科学」だったのです。「真の科学」が作った物語である「分身主義」だったのです。

もはや、現代の科学は、置いてきてしまった人間の「心」、宗教が大切にしていた「心」、その「心」に追いついて追い越しています。人間中心の傲慢な科学ではなくて、自然界中心の謙虚な「真の科学」を、整理統合する人がいなかったので、それが見えていなかっただけだったのです。


Shinya Salvadorさん、それだけはわかって欲しいと思うのです。


もうすぐnoteからも去ることになるジジイは願っています。


科学が導いてくれた「分身主義」を理解できる人が、数人でもいいので現れてほしいと思います。
その方たちが、口先だけのジジイの夢だった「この世界を明るく変える」という夢を実現してくれるからです。

明るい未来



ジジイは、幼い頃、姉にその存在を教えられたサンタクロースをそのまま信じていました。
大きくなるにつれ、それは嘘っぱちだったと知りガッカリしました。

でも、不思議なことに、大人と呼ばれるくらいの年になった頃になって、クリスマスが近づくと、あの頃のように幸せな高揚感がムクムクと沸き上がってくるようになったのです。

それは大人になっても、心の中に、プレゼントを届けに来てくれるサンタさんはずっと生きていたからだと思うのです。
クリスマスやサンタクロースを創造した人間の、何かを無邪気に信じる心や、歓喜に酔う心や情熱は、人類の心の中で今でも息づいているからだと思います。

それは決して捨てる必要はないし、そして捨ててはいけない尊いものに違いありません。



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📌個人主義から分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)

★★★   未来モデル小説   ★★★
ブンシニズム・ドット・ネット
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。

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長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。