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結局茨城百景とは何なのか

今年の夏は常軌を逸した猛暑で昼間活動するのが危険すぎて百景巡りを一時中断してたんですがこれはその間に書いたモノです。
内容は資料『茨城百景巡礼』のレビュー記事をさらに深堀したものなので重複する箇所が多々あります。

まず自分が茨城百景を知ったきっかけは茨城のあちこちに茨城百景の石碑を見かけてなんだこれーと思い検索して調べたのが始まりです。
検索すると''茨城百景とは''という情報で一番上に出てくるのはまずWikipediaです。しかし肝心の情報はこれのみ。

まー何となく昔の茨城県の観光名所百選みたいなもんか・・・というのは分かりますが情報量があまりにも少ない。ざっくりしすぎていてコンテキストが不明で選定した目的とか趣旨とかはなんなんだとなります。
そもそも74年前のモノですから現代人からするとコンテキストが不明瞭なのも当然です。よってこういった情報を見つけていくのが大変なのは茨城百景の特徴でもあります。百景の一覧表には各景の名称しか無く写真や場所が完全に網羅されたオフィシャルのガイド的な資料も無い(確認できない)ので一々調べ物をして深堀して謎解きしないと巡礼できません。まぁそれもまた茨城百景巡りの面白さの一つになりつつありますがw

そして深堀するともう少し詳し目のページがあります。

ちなみに茨城県大百科事典の発行元はその茨城新聞であり数少ない茨城百景の資料の一つ『茨城百景巡礼』の著者、室伏勇氏も同新聞社の記者でした。なので茨城百景巡礼にはこの百景の成り立ちや趣旨が更に詳しく書いてあります。

茨城百景巡礼 著:室伏勇 より

端的に言えば戦争が終わったので観光促進、宣伝のために地元新聞の紙面での投票イベントを通じて茨城の観光地百選を選ぼうという企画。
稲敷市のHPの説明では端折られてますが茨城百景巡礼によると投票の後に県が人員を派遣して現地調査をしてその後審議会にて議論して最終的に決定というプロセスもあったようです。
つまり、選定の順序は各自治体の協力を得て候補地(計180ヶ所)を県観光審議会に推薦→同新聞の紙面にて告知、人気投票(観光茨城百景県民人気投票)→県が実際に実地調査でデータ集め→それらの情報を元に茨城県観光審議会による審議にて最終的に選定。
という感じ。

しかし平和建設云々は茨城百景と言う企画をやるきっかけの一つに過ぎず、恐らくもう少し背景があります。
まず1935年に茨城四十五景というものが選定されています。これは茨城新聞社の創刊45周年の記念事業のひとつとして行なわれたものです。
これもまた同じく投票を通して選定するイベントだった模様。

昭和10年、創刊四十五周年を迎えた本社は、これを記念し、積極的な紙面改革と事業を展開する。
紙面改革は「県特産品市況報道」「読者への紙面解放」「相談欄新設」「家庭欄などの拡充」―の四本柱。記念事業は「茨城四十五景」の県民投票。
「茨城四十五景」の県民投票は、県内の景勝地を発掘、広く県内外に紹介しようという観光企画。県内では初めての県民公募の景勝地選定事業となった。
東京は官製はがきか本誌刷込みの投票用紙で、社告を掲げた7月21日の翌日から投票用紙が、本社、支局に届けられた。この投票用紙獲得をめぐって、広告を出して寄贈を訴える熱狂的な候補地まで登場。連日、誌面で獲得結果が掲載され、県民のボルテージは上がる一方だった。
募集締め切りの8月31日までに寄せられた投票数は2,360,014票。本社発行の投票用紙にして高さ238.4メートル。はがきに換算して715メートルに匹敵し、県民の関心の高さを裏付けた。
候補地は154か所と広範囲なものになったが、トップは東茨城郡常北町の小松寺で167,014票を獲得。二位は行方郡玉造町の桃浦、三位は笠間市の佐白山だった。45位は久慈郡里美村の天竜院渓谷。51位だった日立市の相田海岸が、取扱上の誤りで5000標ほど本社に届いていないことが判明し、準45位に認められるといったおまけもついた。
「茨城四十五景」が決定すると、本社は四十五景の観光写真も県民に募集。その結果、第一部・引伸の部に水戸市、戸島寛氏の「相田海岸」、第二部・密着の部に中里村(現日立市)、関右馬允氏の「花園山の瀧」がそれぞれ一等に入賞した。
また、四十五景入選地には茨城工芸会会員で、東京日本橋三越本店前のライオン象で名高い磯崎美亜氏製作のレリーフを贈呈。各景勝地でも、記念碑や案内標示を建てて、観光開発に役立てる動きが見られた。

ー『茨城新聞百年史』(1992年) より

恐らく年代的に現在の毎日新聞が1927年に選定した日本八景、日本二十五勝、日本百景が元ネタなんじゃないかなーと思います。マスメディアが投票イベントを通じて選んだ候補を専門家が審議して最終的に選定するというやり方が同じです。
当時これは日本全国に結構な反響を呼んだらしく茨城新聞社もその宣伝効果を見てせっかくだしウチも記念事業として45周年にあやかって四十五景にして地元版をやるかーみたいなノリだったのでは?
元ネタのほうは日本八景の選考に漏れた景で日本二十五勝や日本百景を作ったようなので同じく大盛況だった四十五景も選考に漏れた分を追加して新たな〇〇選や○○景を作りたいと思うのは自然。恐らく戦前の時点で茨城百景を作ろうという考えはあったのかと思います。しかし茨城四十五景の選定の2年後にすぐ日中戦争が始まり日本は戦時体制に入ります。選定の直後に観光だのなんだの言っていられる雰囲気ではなくなったのは想像に難くありません。
最初は戦後すぐの混乱期になんでこの企画をやったんだろうと思ってました。しかし戦前からやろうとしていた物が戦時体制入りでとん挫→戦争が終わった直後にすぐ実行という流れなら納得です。
更に百景巡りをしていて大正頃から日中戦争前までに最盛期を迎えた戦前の観光地が多いな~と思う事が多々ありましたが終戦後すぐの投票なので考えてみれば当たり前でした。鹿島砂丘の軽野サンドスキーなんかは戦中に営業終了している観光スポットなのに包含風景に入っていて疑問に思っていたのですがそーいう事かも。

また投票イベントをもう一回し直したのは1948年に県が行った平和茨城建設計画と関係があると思われます。
資料『日立市 十王町史』によるとこの計画は端的に言えば戦争で傷ついた茨城を復興する計画ですがそれに茨城新聞社が賛同しその一環として「観光茨城百景」構想が立案された・・・との事。
復興計画をきっかけにかねてから実行しようと思ってた茨城四十五景の続編の企画を持ってきた、そして戦争という衝撃的な出来事の後であり前回からタイムラグもあったしもう一度投票イベントをした・・・という所でしょうか。
ちなみに1949年12月15日に準備会が開かれ、翌年3月末までに選定するというかなりハイペースな計画だったらしい。最終的には少し伸び1950年の4月21日に決定された百景一覧が紙面に掲載されたもののそれでもかなり早く、やはり四十五景があったからこそなのかなと思わされます。

ちなみにこの計画の記録映画には資料『茨城百景めぐり』を生み出した日立多賀工場が登場。なんとなく工場新聞で百景巡りの連載記事を開始した理由が垣間見えます。

これまでの情報と茨城百景巡礼に書かれている事を整理すると
・主催は茨城県と茨城新聞社。
・選定の順序は各自治体の協力を得て候補地(計180ヶ所)を県観光審議会に推薦→同新聞の紙面にて告知、人気投票(観光茨城百景県民人気投票)→県が実際に実地調査でデータ集め→それらの情報を元に茨城県観光審議会による審議にて最終的に選定。
・恐らく1935年の茨城四十五景の続編若しくは進化版である事。
・恐らく投票を通じて観光地を選び広く宣伝するイベントの元ネタは毎日新聞主催の日本八景である事。
・経緯や候補地選びをしていた時期的に戦後の観光地というより戦前からの観光地という性格が強い事。
・茨城百景の準備会が1949年12月15日、最終的に紙面で百景一覧が発表されたのが翌年4月19日。

終わりに
この茨城百景、観光地としては戦前に最盛期を迎え高度経済成長期の中で廃れていった物が殆どです。よって長い時の流れの中で景色が大幅に変化しているので巡礼のためにかなりの調べ物をしないといけない場合がしばしばあり、過去を追う内にタイムスリップしているような奇妙な感覚を味わえます。最初は穴場探しが大好きな自分が趣味としてやっていたB級スポット巡りの一環として巡礼を行ってきましたが今ではこういった面が百景巡りの最大の魅力かもしれません。

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