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茨城百景 鹿島砂丘と神之池

今日ついに数日かけて包含風景までコンプリートしたので記憶が新鮮なうちに。

神栖市ってあるんスよ。サッカーとか鹿島神宮とか工業地帯で有名なアレの南にあります。まぁ自治体は違えどほぼ同じ文化圏ですわ。で昔ですね神栖や鹿嶋にデカい砂丘があったらしいです。

明治頃の地図。おにぎり型の池が神之池。肌色の部分が砂丘。
戦後の航空写真

今と全く違います。神之池は鹿島港の開発で約7分の1の大きさに、砂丘も市街地や畑になりほぼ消滅。そうこの百景は石碑しか残ってないパターンです。
しかし聞くところによると石碑すらない場合もあるそうなのでマシかもしれない(何が?)
そしてここの景はこの神之池と砂丘、そして包含風景の軽野サンドスキー(現在の神栖市立神栖第三中学校あたりにあった)です。

追記:資料『茨城百景巡礼』に掲載されている1966年の修正版茨城百景一覧表には包含風景に鹿行臨海工業地が追加されていました。

『茨城百景巡礼』 著:室伏勇 より

かつては神之池の後ろに鹿島砂丘の巨大な砂の丘が見えたそうです。これらを見るのが目的ですが現在は無いので写真資料を見つけ出して閲覧するしかありません!せっかくなのでかつての池と砂丘だった場所も行ってみたいので行く事に。そして予めある程度インターネッツで下調べをします!神之池に関しては神栖市がネットにかつての神之池の岸の写真を何枚か公開しています。(この写真は後々たどり着いた郷土史の本でも見る事になります)しかし肝心の鹿島砂丘と包含風景のサンドスキーの写真はネット上にはないのか全く出ません。しかしどーやら神栖市歴史民俗資料館には砂丘の写真があるのが下調べでわかりました。これは現地行くしかねぇべ?

下調べをしている内に開発でこの景色が消えるまでに中々興味深い郷土の歴史がある事が分かりました。ざっくりと書いていきます。
 まず砂丘が真ん中にまたがっておりサツマイモや落花生くらいしか採れなかった不毛の土地だったようです。農業と漁業で生計を立てる僻地の農村といった感じだったそう。しかし大正になると大貫公光という人が事業として鹿島文化村という分譲別荘地を始めます。これは当時、平和記念東京博覧会で紹介された文化住宅、そしてこの頃の日本に伝播した田園都市の理念が合わさった上で明治頃はお偉いさんや外国人が自分で建てるような存在だった別荘という物を大正に入ると大資本が手掛けて販売するようになったという背景があり、そういった流行に乗っかり村おこしとして別荘地の分譲と観光産業をやろうという事があったようです。

鹿島文化村

そして今度は神之池の東側の軽野村がそれに対抗して鹿島理想郷を作ります。こちらは別荘地の分譲のほかに息栖神社参拝や砂丘を利用したサンドスキー場、グライダー練習場等のレジャー施設建設まで含まれているクソデカ計画だった。

息栖河岸の船着き場と奥に見える息栖神社

他の茨城百景でもいくつかそういう所がありますが当時はまだまだ水運が活発で船でこの息栖河岸に来て当時は珍しかった車での送迎をして池や砂丘の遊覧コースを巡る優雅な体験を・・・という感じだったみたい。魅力度ランキング全国最下位の現代の茨城よりだいぶちゃんとやってますね。

理想郷のパンフ。投資物としても安全確実(笑)

しかしこの投機じg・・・村おこしに不穏な影が近づきます!
まず文化村には海軍村ができます。海軍村とは端的に言えば海軍将校とその関係者がまとまって住むオシャンティーな住宅地の事です。
そして昭和に入り日中戦争の直前1935年に理想郷のグライダー場が完成します。しかし2年後の日中戦争開始の年に帝国飛行協会鹿島支部が設置されます。
帝国飛行協会はバリバリに軍人が所属しているような組織で支部の発会式にも予備役軍人が参加して名を連ねています笑
そして戦争が激化する中で文化村と理想郷の敷地は軍と国に接収されます。投資物としても安全確実とパンフには書かれていますが投資してたら大恐慌からの接収で強制ロスカットです!まぁ買い手がいるだけいいのか・・・

おむすび型の神之池の左手にあるのが元文化村の敷地。北側に滑走路が見える。

文化村、理想郷双方軍事基地の敷地として接収され戦時中は内閣中央航空研究所鹿島実験場や海軍航空隊の基地があったそーです。当時の平時から戦時体制に進んでいく当時の日本の空気がひしひしと感じられます。
そして戦後すぐ食糧難対策として基地の敷地が解放され畑として開墾。またすぐ自衛隊の基地にするだのなんだのでジモピーと揉め基地化はせず畑や市街地になり砂丘は完全消滅、神之池は鹿島港の開発で7分の1サイズの調整池へ・・・という流れらしい。

と、ここまでネット上で下調べをしてとりあえず目的地ははノルマの石碑・神之池の現在の姿・元砂丘だった山・神栖市歴史民俗資料館に決めました。
車に乗って行くで・・・!神栖へ・・・!(ニカッ

まずは石碑。今回はGoogleマップで検索したら簡単に出てくるタイプだったのでイージーです!

えぇ・・・
なんか神之池の公園の駐車場の端っこの緑地帯だか空き地だかよくわからないスペースに設置されてました。この石碑置き場にアクセスする道みたいのはなく草ボーボーで国道の歩道とは植木で寸断されてるし。
んでそのまんま歩いて神之池まで行きました。

かつてはこちらの方向の奥に砂丘が見えたらしい

かつては漁師の船が浮かび風光明媚だった池は釣り堀みたいになり砂丘も無く工場がチラ見えで中々悲惨です!しかしそれは余所者クソレジャーである自分の都合。地元の人はそれらの自然と引き換えに巨大な国際港と工業地帯で不毛の地を脱却できたのです。

次は元砂丘の山?丘です。一番標高が高く祠が設置されていた弁天山というのもあるようなのですがそこは工場の敷地内にあるので現在は入れません。よって公園として整備されている砂山都市緑地に向かいました。

グライダーの石碑。陸軍大尉の名前がある
かつての神之池方向。工業夜景の名所らしいが夜来たら森なので絶対怖い
砂丘の名残

アッ砂ありますねぇ!
緑地化されてますがちゃんと砂丘の砂は残ってました。
というか工業地帯の奥という僻地にあるんですけどこの公園、休憩スポットなのか働く漢たちでメッチャ混んでました。

そして次は神栖市歴史民俗資料館です。
地域の博物館あるあるですがやはり縄文時代からの振り返りです。茨城百景が確認できそうな大正~昭和までのコーナーは極一部です。しかし文化村や理想郷を紹介するコーナーで当時のパンフレットや地図があり更には池、砂丘の写真も少しありました。神之池と砂丘を一緒に映した風景の写真は確認出来ませんでしたが神栖市がネットに公開しているその風景の再現模型の実物の展示がありました。
しかし理想郷の写真が印刷されている絵葉書の展示が雑で絵葉書が重なった形で何枚かちゃんと見れませんでした。受付にケース空けて並べ直して全部見せてクレメンスと言おうとしましたが池と砂丘の写真がギリギリ見えていたのでまぁいいかと思って何も言わず帰りましたwもしかしたら重なって見えない絵葉書に貴重な写真があったかも?
ともかく中々面白い所だったので百景巡りしてる人は現地に行って君の目で確かめてみてくれ!

そしてついでに厄介地主がおっちんでからついに全通したシーサイドラインを記念に走って神栖市の南端にある波崎海水浴場へ。ちなみにシーサイドライン海は殆ど見えません。

はえーすっごいおっきい・・・
波崎海水浴場は航空写真で見るとよくわかるのですが鹿島灘の中でも砂浜の面積が大きいです。鹿島砂丘も1枚目みたいな感じだったんでしょうか。砂も同じ地域の物だし実質同じでしょ(適当)

そんでここまで来てまだ時間があったので息栖神社にも参拝。

昔の写真の頃より埋め立てで陸がかなり川側に広がってます。

たまたま見かけた絵馬

えアフガニスタンか何かなの?神栖は今でも過酷な環境なのでしょうか。

ここまで来て一応石碑ノルマと池、砂丘それぞれ単体でコンプ出来ましたが包含風景の軽野サンドスキーが確認できません!
帰宅してまた調べ物をしてると『目で見る鹿嶋市・鹿島・行方の100年』という本に軽野サンドスキーの写真があるらしい。

じゃあせっかくなので百景に一番近い千葉の東部図書館いくべ!
というわけで行きました。

受付でアッアノコノホンカリタインデスケド…と言ったら奥の倉庫から持ってきていただいて。

定価11000円(笑)

ありました~

しかし本によるとサンドスキーの営業は1935年~1941年と書いてあります。あるぇ~?茨城百景の選定は1950年だよ?どーいう事なんスか!
茨城百景の選定が戦後なので軽野サンドスキーも戦後営業してたモノと勝手に想像してましたがどういう事なんだってばよ。
これに書いてないだけで営業を再開してたのか、選定した県が営業していないのを認識していなかったのか・・・
本の最後には参考文献のリストがあったので深く調べていけば多分事実は分かるんでしょうけどあくまで景色を見るのが目的なので自分は深追いしません。

ともかくこれにてようやく茨城百景 鹿島砂丘と神之池コンプかな?しかし単体では見れましたが神之池の奥に鹿島砂丘がある景色を写した写真は見れませんでした。それだけがちょっと心残りになりました(小並感)

茨城百景 鹿島砂丘と神之池 ~完~


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