FOREST COLLEGE 受講note|4

INA VALLEY FOREST COLLEGEの受講ノート。

第三講目のテーマは「森とまちづくり~森と人の関わりがうまれる「まち」のあり方を考える~」

"まちづくり"というと、主語が自治体というか、地域の取り組み、のような印象を持ってしまう。しかし今回のトークセッションで語られたのは、ひとり一人の暮らしづくりや、小さな共同体づくりの延長にある、主語が"自分たち"のまちづくり。そんな内容だったように思う。

■地域資源を面白がる

伊那で地域起こし協力隊をしている田中さんは「地域資源を掘り下げて価値にする」活動をされている。長雨が原因で山積みになってしまった流木を資源と捉え、それを活用したカッコイイ商品をつくったり。地域のママたちを資源と捉えて、いろんな仕事や課題とつなげたり。

ゲストのグリーンズの植原さんも言っていたが、足元の資源を観察・発掘→関係性をデザイン→一気に課題解決していくようなことは、これからのまちづくりの在り方なのだろう。

ヒト資源、自然資源、文化資源…埋もれてなくなっちゃいそうな資源も山ほどありそうだ。灯台下暗しではないけど、足元の資源のことを、その地域で当たり前に暮らしている人たちはなかなか気づけなかったりするのだろう。

ここで役に立つのが"外"の目線や価値観。もうひとりのゲスト、郡上市でいろいろやっている岡野さんの言葉を借りれば、「外から入る人が面白がる」ことで、資源は資源として浮かび上がってくるのかもしれない。

■地域と都市の間の翻訳

地方と都市の言葉はズレてしまうこともあるから、それを適切に翻訳することも大切。という話も、なるほどなーと思った。もちろん、方言を標準語にとか、よくわかんないカタカナ語にするとか、そういうことではない。

「地域資源を掘り起こし、関係をデザインして、価値創造や課題解決」→「キノコ採り名人のおっちゃんに、移住者のサバイバル先生になってもらい、どちらの生活も楽しくする」みたいな翻訳もできると思う。翻訳を考えるだけでもプロジェクトができそうだ。

■自分が持つ動詞

岡野さんのお話で印象的だったのは、「人間にはその人が本来持っている動詞がある。それに出会えるかどうかが、生きやすくいられるかどうかを決める。」というくだり。

岡野さんにとってそれは"揺らぐ"という動詞だったらしく、水と触れ合うといい感じで、嫌なことがあってもプールに入るとバッチリらしい。水との関わりにどんどん誘われ、源流域に暮らしを移していったとのこと。

自分の動詞は、なんなんだろう。考えたこともなかった。

■またしても身体性

今回の講座でもやはり、体験や経験、身体性の大切さが語られていたように思う。室内でマーケティングの話やら事業開発の会議してるより、自然の中で遊びながらチームビルディングしている方がうまくいく。自然環境もろとも生きる。身体と精神の一致感覚。きのこすげぇうまい。そんな実感、欲しいなー。俺も語りてー。

■コミュニティとか苦手

グループディスカッションでは、森と関わりながらどういう暮らしがしたいかを話した。

その中で、地域やエリアに"シェア薪小屋”のような場があって、そこをハブにして地域の人や移住者がつながったり、きこりの人が他の職種の人とつながったりできたらいいよねー、というアイデアが出た。

面白かったのは「それが実現しない理由ってなんかありますか?」というするどい問いに対して、フリーのきこりをやっている方が「きこりって、コミュニティとかそういうの、あんま好きじゃないかも。好きにやりたいというか、シャイな人も多いしね」というようなことをおっしゃっていた。なんかすごい腹落ち感があった。

「ポスト資本主義的な世の中では、都市生活で失われたコミュニティを構築し直すのが大切。」これが都市側の言葉だとして。それをそのまま木こりの人に当ててしまうと「コミュニティ?人付き合いだろ?そういうのが苦手できこりやってんだ」となってしまうかもしれない。

コミュニティやつながりがあることは豊かだ。自然を相手にひとり向き合う時間は豊かだ。どちらも真実で、どちらも蔑ろにしてはいけない。分離してしまうかもしれない価値観を乳化させる。やはりそこには、間に入るコーディネーター、翻訳が必要なのかもしれない。そんなことを思った。


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