中村佳穂さんと細田映画/欠けているからこそ無思想でいたい


現代人に不足している安全基地/そのままであることを赦す/adhd的奔放さとasd的固有空気感 先導してくれるかんじ/原始的ポジティブな感動欲動/新自由主義的には“政治色・思想色がない”とされる状態/社会的役割よりいち生物としての憂いや喜びを音楽という言語で意のままに表す、いち人間としても求められた事より自分の選択を重視し意のままに振る舞う/音楽的言語を感覚として備えている/音楽的才能“且つ”中村さん個人の魅力

“赦されない”世界で生きる総アタッチメント障害社会の日本では、ネガティブさや社会的要求を排して、原始的よろこびを感覚のままに音楽表現する中村さんはアイドルだろう
だが忘れてはならないのは中村さんは美しいものを生むし、それをナショナリズムに利用する層も存在するということである
原初の発達段階を欠かした現代人は無条件に無思考に受容・愛されることを望むしそれは必要なこと
だが恐らく構造的な愚民化政策の片棒をかつがせようとする人間もいるだろう

あの速度で多くの業界に広まり、大衆娯楽の頭を飾るまでになったのには、純粋な彼女の力量や人々の感動の他に、利用する手があったからだ(しかも中村さんをモチーフにしたかような舞台設定、キャラクターの映画)
おそらく彼女は池井選手あるいはその他のアイコニックな立場を担うようになる。
彼女の音楽と空気を楽しむには、①マインドフルネスに、あるがままに“イマココ私”を楽しむ時間と、②構造や政治を考える時間を両方持たねばなるまい

細田氏と日本社会が希求するもの

細田作品の過去作のなかで、時をかける少女が個人的に1番フラットなきもちで楽しめる作品だ。次にサマーウォーズである。
その他はあまりに監督の“女性として幼少期から育てられてきた人間”の経験・感情に関する解像度が低く、(それゆえ“女性観”について指摘されることもあるのかと)どうしても見る気になれない。

しかしかくいう私も細田氏のアニメ映画がオタク・創作入門者の入口だった。そして彼の作品が日本人にとって馴染みやすく感じ入りやすい一大娯楽であることは間違いないとも感じる。
彼の作品は、子供には社会的圧力のすくない自由な空間の広がりをもたらし、疲れた大人には受動的であることを受容してもらえる希少な休息所となっているに違いない。日本的回帰文化を精緻に描き、受容と冒険と社会的責任をジャッジの不在あるいはカジュアル化とシンプルな善悪構造が視聴者にストレスレスに完璧に組みあがっているのだ。

だがここで注意したいのは、子供や、疲れた大人の中にも格差が生じており、より立場が脆弱で発言力も皆無のような存在が細田作品の中にまなざされているか?という視点である。
また、社会性を排除してあるがままを無条件に肯定したり、生きることを応援する表現物があったとして、それを生み出しリリース・プロモーションするまでの層のすべてが無思想でいられるのかという疑問もある。
彼の作品や、彼よ美的感性により取り入れられた物・人材は果たして最終的に何の政治的思想も体現してはいないというのか。

さて、細田作品の過去の主題歌を振り返ろう。それによって細田映画が目指し、日本国民が求めるものの一端が見えるような気がする。

夢ならば覚めないで現実なんて身も蓋もないから /Belle(中村佳穂)

変わらないもの /奥華子


“(生育過程や時代変遷等の多彩な理由で)安心を失った人間による、(教育介入等で)大衆から安心を奪う一方で恣意的な娯楽文化で安心を振る舞い、コントロールしてゆく”

私には日本社会は、愛着障害を利用した支配関係が連鎖する社会に見えてならん

新自由主義や、愛着障害知らん人は以下が分かりやすいので見てみてくだされ
新自由主義︰デヴィッド・ハーヴェイ著書
愛着︰岡田尊司著書、子ども発達研究所(こはけん)の無料講習会

ジュディマリも中村佳穂さんも、むしろ社会的しがらみを突破した表現者であったが、いかに類まれなる表現者であっても、表現者とそれに賛同する大衆との関係に回収されてしまえば、至って普遍的で利用し易いインフルエンサーと受信者の構図になってしまうのだ。

というか、そういう無イデオロギーというイデオロギーを代弁させるインフルエンサーに「限って」女性が多くなるのは、やはり他者であり資源であり最もコントロールされるのに特化した層だからという事も、繋がってくるのかもしれない。
(例えば、お気に入りの曲に女性シンガーが多い男性は歌によって代弁と理解を求めるが、結局女性という層を代弁し理解し返すことはないし、夫は妻の都合で仕事や生活や自分の戸籍情報を融通することはまれである。
社会には、男女間で非対称な寄り添いの関係がありふれていると感じる。おしなべて男性は、“社会的な動機or自分の欲求から離れて”相手を助ける、助け返すということが無い、と期待していた方がよいというのは、経験から導き出された個人的な見解だ。)

また、女性装というある種の呪縛となりうるものを、女性に対してエンパワメントの皮をかぶせて差し出すことがあるの風潮があることも忘れてはならない。
自信や輝きを、細くて高いヒールのパンプスや長いまつ毛や「色気」という言葉でで表されることをもっとよく考えるべきだ。

アイドルや歌姫すなわちインフルエンサーとなる女性には、これは本当に美しいだけのものなのか、その他にどのような作用や思想が含まれているのか、少し考えてもらえればと思う。

 椎名林檎氏については、歌詞を聞いていればそのアナーキーなスタンスはおのずと理解出来るものの、そもそもの彼女の思い出や感性の主軸であるからであろうか、保守的文化の回顧が顕著なのは確かである。資生堂スポンサーの「女の子は誰でも」や紅白での日旭旗や、また少し別の話かもしれないが車へヒトラーと名づけることなど、よりによって影響を与えやすいビジュアル面で、社会構造な歴史認識が後回しにした表現をしがちとの懸念は否めない。

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