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あなたとわたしの、いちばんやさしい距離 『推し、燃ゆ』
2021年第164回芥川賞受賞作を受賞したとき、著者の宇佐美りんさんは21歳だった。今更になるが『推し、燃ゆ』を読んだ。
今なぜたくさんの人が「推し」を大切にしているのだろうか。下記の一節が心に残っている。
携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、その隔たりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない。一定の隔たりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。
推しとの隔たりのある距離が「優しい」というのだ。
この小説の主人公である「あたし」と「あたしの肉体」にはいつも距離があって、思うように動かない。肉体と「あたし」の関係は、「あたし」と家族を傷つける。学校は中退し、バイト先はクビになる。まるで優しくない、傷だらけの関係だ。推しを推すときだけ、「あたし」は重さから解き放たれることができるという。
最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意思と肉体が途切れる。(中略)推しを推すときだけあたしは重さから逃れられる。
なぜあたしは普通に生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう。始めから壊してやろうと、散らかしてやろうとしたんじゃない。生きていたら、老廃物のように溜まっていった。生きていたら、あたしの家が壊れていった。
推しは「あたし」にとっての背骨だ。しかし、周囲の社会からはその一方通行の関係は理解されない。
世間には、友達とか恋人とか知り合いとか家族とか関係性がたくさんあって、それらは互いに作用しながら日々微細に動いていく。常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係を不健康だという。
思うようにいかない肉体では他者との「健康的な関係」を築くことはできない。しかし、誰も傷ついていない/傷つけていない関係を「不健康」と決めつけることはできないのではないだろうか。「あたし」の気持ちがわかるような気もする。
そんな推しとの優しい関係は、推しの引退宣言とともに終わりを迎えてしまう。「あたし」に押し寄せてくる肉体の描写に、息をのむ。
ふと、祖母を火葬したときのことを思い出した。人が燃える。肉が燃えて、骨になる。(中略)自分の行いが自分に返ること。肉を削り骨になる。推しを推すことはあたしの中の業であるはずだった。一生涯かけて推したかった。それでもあたしは、死んでからのあたしは、あたし自身の骨を自分で拾うことはできないのだ。
あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる
肉体を伴わない「あたし」は、人間になった推しをもう解釈することはできない。
生まれたときから今までずっと、自分の肉が重たくてうっとうしかった。いま、肉の戦慄きにしたがって、あたしはあたしを壊そうと思った。
綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。(中略)這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
最後の場面で、「あたし」は、肉体の戦慄きにしたがって身体を動かす。生きていくため、背骨を失い這いつくばった体と向き合う。
肉体という、自分自身と向き合うことなしには、生きていくことはできないのかもしれない。生きていくこと、人や社会と関わるということは、傷つき傷つけずにはいられないのかもしれない。
それなのに今、人や社会と関係性を結ぶときにどうしてもできる傷が、許されない空気があるように思う。許してもらえない傷は「あなた」も「わたし」もより深く傷つける。だれも傷つけることが許されない時代を生きるために、誰にも傷つけられないために、「推し」とのやさしい距離が今必要とされている、と思う。
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