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966杯目:マラソン…苦しいのに何でみんな走るんだろう?を外から考えてみた。

今日、地元で市民マラソン大会が開催された。
42.195キロメートル走るフルマラソンの市民マラソン大会だ。
地元で開催されるくらいだから自分の知り合いも多くの人がエントリーしていた。

マラソンというと、自分は学生時代の校内持久走大会を思い出す。
冬休み明けの書初め大会と2月初めに行われる校内持久走大会、自分にとって寒さ以上にとっても苦痛な時期だったf^_^;)
3学期の体育の授業は、校内持久走大会に向けての練習も多かったので、本当に嫌だった。
思い起こせば、自分だけでなく周りのほとんどの友達も持久走は嫌だと言っていた。
そのくらいマラソンというのは嫌なもののはずなのに、自分を除く(笑)周りの知人は大人になってからマラソンにエントリーするようになる人も少なくない。

学生時代、あれほど嫌だと言っていたのに、大人になって強制でもないのに何でマラソンを走るのだろう?
マラソンに対して学生時代のままの気持ちを持ち続けているのは自分だけなのではないだろうかと思うほど、周りの知人は走り出す。

マラソンにエントリーした知人に聞けば、『何でエントリーしちゃったんだろう?』とか『安くない参加料を払って何で苦しい思いしなくちゃならないんだろう?』なんて言っている人もいる。
それなら出なければいいじゃん!って思うけど、もちろんそれらが本音じゃないことは理解できる。

これだけ多くの人が走りたくなるのにはそれなりの理由があるのは確かだと思うので、外からちょっと考えてみた。

走って苦しい思いをするのはだれでもいっしょ。
沿道からランナーを見ていても、みんな苦しそうな顔をして、歯を食いしばって頑張っている。

苦しい思いをしながらも走りたくなるのは、純粋に自分との戦いに持ち込める環境だからなのではないかと想像する。

大人になると、生活していて嫌なことがあると色々な要因が絡んできたり、考えることができたりする。
あの人のあそこがいけないから良い結果にならなかったとか、こうならなければ上手くいったはずなのにとか。
言い訳も含めて外部の要因を絡めて考え勝ちになる。

しかし、マラソンは逃げも隠れもできない孤独な世界。
結果が悪かったり苦しかったりすれば、それは全て自分の責任。
よって純粋に自分との戦いになってくる。

苦しくなるのがわかっていても走るというのは、言い訳のできないところに自分を置いて、そして自分との戦いを制して完走する…タイムを縮める…頑張る…そこに何にも変え難い感情があるのではないかと思う。
そしてそれを一度味わうと癖になり、また味わいたくなる。
それが、走らせる要因になっているのではないかと自分は想像しますがどうでしょう?

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貴重なお時間の中、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 駄文ながら一生懸命書かせていただいていますので、またいらしてください。