見出し画像

男のような何か(男役)を求め続けて      ~男女の身体能力差と男役の存在~

今から数年前、体育の時間に体力テストの平均が掲載された資料を見ていた高校生の私は、衝撃を受けていた。
以下の画像は、私が見た資料そのものではないものの、ABEMA TVで紹介されていた資料である。
この画像は、令和4年度にスポーツ庁が中学2年生の生徒を対象として行った、全国体力・運動能力、運動習慣等調査の結果を示したものをABEMA TVが紹介しているものである。

https://times.abema.tv/articles/-/10064035?page=1

男子の結果は青で示され、女子の結果はピンクで示されている。
長座体前屈こそ女子の記録がどの年でも男子の記録を上回っているものの、他の競技では男子の記録が女子の記録を上回っている。
元々そんな気がしてはいたが、個人差があるとは言っても男女でこんなに身体能力の差があるとは…。かなり衝撃的だった。
もちろん個人差があることも分かっている。
オリンピックで金メダリストになるような女性の身体能力と、普通の男性の身体能力を比べたりしたら、話は別だろう。
ただ、一般的な男性と一般的な女性を比べた場合…。
女性が男性に身体的な「力」で勝つというのは難しいと分かった私は、悶々としながらも色々と考えを巡らせていた。
仕方のないこと、だとは思う。
そもそも男女は身体の構造が違うのだから、体力差が出るのは当たり前だ。
しかし、私がずば抜けた身体能力の持ち主にならない限り、男性に身体的な「力」で勝つのは難しい…ということは、私に色んな考察を与えた。

男性にビクつきまくっていた幼少期

おそらく私は、幼少期の頃から男性に妙な身体的な威圧感を覚えていた。
私の父親は優しいけれど母親とは違う大きな足音を立てるのでビクつき、力が強いのでドアを閉める音が大きくてビクついていた。
幼稚園の頃の鮮烈な記憶は、組体操の練習だ。
(この話は前の記事にも書いたかもしれないが)
私の幼稚園では組体操の練習の時だけ、若い男性の先生2人が指導してくれることになっていた。
先生たちは背が高くて、かなりの筋肉質で、声が大きかった。
今できることなら私はその先生たちに謝罪したい。
当時5歳だった幼稚園児の私は、その先生たちが授業にやってくるだけで泣いていたのである。
その先生たちが、私に意地悪なことをしたとか、そういうことは全く無い。
先生たちはただ普通に、幼い私たちに組体操を教えていただけである。
もともと1番身近な男性である父親に身体的な威圧感を感じていたその気持ちが、幼稚園という場所で大爆発してしまったのかもしれない。
20歳になった今はそこまでの大爆発を起こすことはないが、多少なりとも男性に身体的な威圧感を感じていることは事実だ。
今考えても私がなんであんなに幼い頃から、男性にビクついていたのかは分からない。
全国体力テストの男女別平均を見ていたわけでもなく、女性が男性に「力」で勝つのは難しいと思える資料を見ていた訳でもないのに、そんな感覚ばかりを覚えていた。
もしかしたら、女性が男性に身体的な威圧感を感じるというのはよくあることなのかもしれないが、私の場合その感覚が幼少期から、しかもかなり激しいかたちで発動されていた。

”歪曲した”かっこいい、という感情

私は残念ながら個人差はあれど、男性に対してであれば誰に対しても身体的な威圧感を覚えてしまう。
「この人には決して力では勝てない…逆上させて殴られたら終わりだ…」という幼少期から感じていたあの感覚を根底に持ちつつ、男性を見る。
男性に接することもあるが、その人がいくら優しくて良い人でも、やはりその感覚は消えない。
男性を好きになるときは、他の人に比べてそういう感覚をあまり抱かせてこない人を無意識に考えて、好きになるようになっていた。
「こんな感覚を抱いてはいけない!これは男性差別に繋がってしまう!ダメだ!」と考えた私は、何回かこの感情を自分の中で抹殺しようとしたが…。
まったくもって無理だった。
10回くらい試みたところで、もう疲れてしまったのでやめた。
幼少期からある感覚を抹殺するのは、かなり難しいので諦めた。
しかしこの感覚を持っていると、色々と面倒なことが起きる。
この感覚は男性に対してなら誰にでも抱くので、テレビやスマホの中の男性芸能人やアイドルもその対象となる。
彼らが突如テレビから出てくる訳でもないのに、「この人には決して力では勝てない…逆上させて殴られたら終わりだ…」という感覚を多かれ少なかれ根底に抱きながら、私はテレビやスマホを見つめる。
かっこいい!と思っても、その感覚(もはやフィルター)があるので、私は”歪曲した”かっこいいという感情しか持てない。
”歪曲した”かっこいいなので、それはあまり素直な感情ではない。
そのため、私は男性芸能人やアイドルにハマることがまず無かった。
かっこいい!とは思っても、素直な感情ではないので熱狂することが無かった。
そんな自分が嫌だった。もう少し素直に男性アイドルや芸能人をかっこいい!と思い、他の女の子たちのように彼らに夢中になりたい。
”推し”を作りたい!!!!!
しかし自分の中の感覚を消すことは困難であった。
私は「男性アイドルや芸能人を素直に好きになりたい!」という気持ちと、「幼少期からの感覚を消すことはできない」というジレンマの中で苦しんでいた。
そんな小3のある秋のことだった。
親が買い与えてくれたiPadの小さな小さな画面のなかでの出来事だった。
私は”男ではない何か”、宝塚歌劇団の男役に出会ってしまったのである。

男ではない”何か”(男役)に出会って

私が初めて見た宝塚歌劇は、2011年雪組のロミオとジュリエットの映像だった。
それまでの私の宝塚歌劇に対するイメージと言えば、”全員女の人で、みんなが真っ赤な口紅をしてて、でっかい羽根付けるやつ”程度のものだった。
正直言うと苦手で、よくわからないものだと認識していた。
あんなに真っ赤な口紅をして、アイシャドウで目の周りは凄いことになっていて、いったいどういうこと…?という困惑ばかりが、”宝塚”という言葉を聞くたびに私の心に渦巻いていた。
当時(小3)の私はアイカツ!が大好きで、YoutuberのHIKAKINさんがしていたヒューマンビートボックスが学校でちょっと流行っていたのでやってみたりしていた。
そのためYoutubeで観るのはいつもアイカツ!かヒューマンビートボックスで、宝塚には目もくれていなかった。
ところがある日、あなたへのおすすめ、に宝塚の映像が流れてきた。
サムネイルは男役と娘役が抱き合っていて、あの濃いメイクの顔がこちらを向いていた。最初はなんだ、宝塚か…くらいに思っていたが、なんせあの濃いヅカメイクが苦手だったのである。
苦手なのでどうにかしてあなたへのおすすめから削除できないかと思い、あれやこれやとやってみたが無理だった。
最終的に「ちょっと映像を見れば、おすすめから消えるんじゃないか」という今思えばよくわからない策を考えつき、私は仕方なく宝塚の映像を見ることにして、おもいっきりサムネイルをタップした。
その瞬間が、その後の私の10年間を大きく変えることになるとも知らず。
映像が始まると、私はとにかく男役を凝視した。
すると、男役を凝視すればするほど「これだ!」という感情が湧いてきた。
不思議だった。
あれほど苦手だと感じた濃いメイクなんて気にならなくなり、むしろそれが男役を引き立てていると思えば好きになった。
9歳の小さい心の中に、”熱狂”という文字が浮かび上がっていく。
かっこいい…かっこいいぞ!かっこいい!
男性アイドルや芸能人には感じなかった、心の底からのかっこいいの感情。
今まで感じたことのないときめきで、本当にわくわくした。
”歪曲”ではなく”ド直線”のかっこいい、だった。
しかもそれに加えて宝塚の男役は”ド直線”のかっこいいだけでなく、舞台を降りた後のギャップ萌えまで持っている存在だ。
それまで”ド直線”のかっこいいで攻めまくっていたのに、舞台を降りた後はもちろん容姿やスタイルの良さは一般人とはかけ離れているが、喋る内容や言葉に多かれ少なかれ親近感を持てる、可愛くて美人なお姉さんたちだった。
”ド直線”なかっこよさと、舞台を降りて垣間見える親近感を持てる感じ、という相当なギャップ萌えの沼にハマりまくり、気付けばアイカツ!もヒューマンビートボックスも忘れ、宝塚歌劇ばかりを見るようになっていた。
アイカツ!は星宮いちごちゃんたちが出ているシリーズで止まり、ヒューマンビートボックスも全くもって上達していなかったが、タカラジェンヌたちの美が幼心に染み入っては宝塚歌劇に夢中になっていると、もう他のことは忘れ去られてしまっていた。
今でもしばしば、「私って宝塚好きになる前までは何してたんだっけ?」と思うことがある。

男性芸能人やアイドルと男役、何が違うのか

私にとっての男性芸能人やアイドルと男役の違いは、かっこよさの伝わり方である。
私にとって男性芸能人やアイドルのかっこよさは、凸レンズを通して屈折してしまった光のように伝わってくる。
幼少期から強烈に男性の身体に威圧感を覚えていて、今も多かれ少なかれ全ての男性に対してそのような感覚を持ってしまう。
つまり、男性芸能人やアイドルのかっこよさはその幼少期からの”感覚”を通してでしか伝わらない(つまり凸レンズを通してでしか伝わらない)ので、そのかっこよさは否応なしに歪曲されてしまう。
否応なしに歪曲されたかっこよさは、本人が発していたかっこよさが少し減らされたものになっていて、それゆえ私は熱狂することができない。
つまり、芸能人やアイドルたち自身はじゅうぶん魅力的で、多くの人を熱狂させるほどのかっこよさを持っているのに、私がこの”感覚”という凸レンズを通してしまうために歪曲し、私の心に届くころにはかなり減ったもの、熱狂するには足りないものとなってしまっているということである。
しかし、それに対して男役。
男役は、女性が男性を演じるということで成り立つ存在である。
宝塚歌劇の場合、出演者が全員女性と分かったうえで舞台を観に行き、男役を見つめる。
男性の身体を持たない”男のような何か”が男役である。
”男のような何か”と言っても、とにかくかっこよくて美しい。
男性芸能人やアイドルと変わらぬ、時に彼らを超えていると観る人によっては思うほどのかっこよさを持っている。
男性の身体を持たない、というのは私にとってすれば、男性芸能人やアイドルを見る時に発生していたあの”感覚”という凸レンズが無くなる、ということを意味する。
つまり、女性だと分かったうえで観る男役のかっこよさは、男性芸能人やアイドルを見る際に発生していた凸レンズを通さず、本人たちが発する威力のまま、ド直線で私の心に届くというわけである。
男性芸能人やアイドルの時のように凸レンズを通したがためにかっこよさが歪曲してしまい、私の心に届くころにはもう減ってしまっている…ということもなく、凸レンズなんて通さず、本人たちの持つかっこよさが全く減らず、時にはギャップ萌えという形で上乗せされて、そのまま私の心に届く。
男性芸能人やアイドルのかっこよさは凸レンズを通して減るので、熱狂するほどまでに自分の心に届くわけではないが、男役のかっこよさは凸レンズなんて無しに本人たちが発したかっこよさそのままで伝わるので、熱狂させるほど私の心に届く。
なんなら男役はそのかっこよさに加えてギャップ萌えも追加してくるので、ますます熱狂してしまう。
もちろん私が宝塚歌劇にハマった理由は沢山あろうが、このことはかなり大きな理由ではないかと思っている。

男役はドン引き男を演じてもかっこいい

男役がかっこいい理由としてしばしば、「理想の男性像だから」ということが挙げられるが、本当にそうだろうか?と思うことがある。
もちろんこれは私個人の意見であるが、作品によっては「こんな男性、ちょっと引くかも…理想像ではないよね」と思うことも多い。
例えば、宝塚歌劇で何度も上演を重ねられているスコット・フィッツジェラルドの名作「グレートギャツビー」の主人公、ジェイ・ギャツビー。
彼は5年前に引き裂かれてしまい今や人妻となった女性、デイジーを思い続けるあまり、デイジーの住む屋敷の向こう岸にわざわざ自分の屋敷を建てる。
デイジーと偶然を装って再会するため、毎晩誰でも参加できる豪華絢爛なパーティーを開き続ける。
デイジーがくれた手紙は全て取ってあり、今でも毎晩読んでいる。
自分の屋敷の中には、大量のデイジーの写真が飾られている。
確かにデイジーが美しくて魅力的な女性であるのは分かるが、さすがにストーカー気質過ぎやしないだろうか。
5年前に引き裂かれてしまった(しかも戦争で)恋人を求め続けるのは分かるのだが、だからといってここまで粘着質だとは…。
グレートギャツビーを観るたび、ギャツビーに対して「これは理想の男性像ではないよな…、ちょっと引くわ…」と思ってしまう。
それでも私は何度も何度も、かっこいい!と思いながらグレートギャツビーという作品に夢中になっている。
ドン引きな行動をしているのに、何故かっこいい!と思えるのか。
それもやはり、凸レンズを通さないかっこよさを宝塚版のギャツビーは持っているから、だと思う。
実際の男性がしていたらドン引きな行動でも、男役が演じた場合そんな行動よりもかっこよさの方が伝わってくるので、いつまでも見ていられる。
それに加え、他の記事でも書いたように男役はかなり現実離れした存在であるから、気持ち悪さを与えることが無い。
もちろん「うわぁ、こんなことするなんて引くわぁ〜」とは思ってしまうが、あまりにもかっこいいし、できないさが無いのでそんなことどうでも良いと思えるようになってしまう。
完全に私の考えであるが、宝塚歌劇は男役を通して直接「理想の男性像」を描いているのではない。男役が男性の身体を持たないことによる「安心感」と男役が現実離れした存在であることによる圧倒的な「清潔感」を通して、どんな性格の男性像でも(たとえドン引きされる行動をする男性像であっても)女性にとっての「理想の男性像」になるように仕立てあげているのではないのだろうか。

これだから男役ヲタクとヅカヲタはやめられない!

私にとっての男役は、色んな面で本当に魅力的である。
①女性が男性を演じるという創作的な自由さ
②男性の身体を持たない”男のような何か”(男役)のかっこよさは、私の心に屈折せず真っすぐに届く唯一のかっこよさであること
③男性の身体を持っていないことによる「安心感」と、現実離れしていて生々しさが無いことによる「清潔感」によって、男役ならどんな性格の男性像でも、女性にとっての「理想の男性像」に仕立て上げることができる面白さ
④舞台上の男役姿と舞台を降りた後の姿のギャップ
⑤歌劇団を退団してしまったら中々男役姿は見れないので、期間限定の儚い存在であること

この5点が巧妙に重なり合って、私は男役にハマりまくっている。
”男のような何か”…、男役以外にこのような存在は見つけられないので、私は男役ヲタクとヅカヲタをやめられない。
明日の七夕、2024年の7月7日で私の大好きなトップスターさんは退団されてしまうけど、それでも絶対にやめられない。




































この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?