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ピアスと母の言葉と。

MAKAZE IZMに合わせて髪をバッサリと切った。

長年ロングヘアだったが、ハーフアップぐらいはできるボブぐらいの短さにした。優希しおんさんよりちょい長いぐらいと言えばIZMを観劇した人には伝わるだろうか(きよちゃんかっこよかったねー)切るつもりはなかったけれどいざ美容院に行くと「バッサリ行きます」と口にした。縮毛矯正を活かす長さで考えて貰った。髪色はパンフレットの娘役さん達のようの暗めの色にしてもらった。今着ている服のテイスト、特にメガネのフレームを考え直さないとな~と思いながらとてもワクワクした。

MAKAZE IZMに出演する娘役さんの、色とりどりのアクセサリーを眺めるのが楽しかった。

潤花さんのトップofトップの輝き、トップのみ付ける事が許されるようなゴージャスなお団子キャップにキラキラのネックレス。娘役さんのアクセサリーをこんなにもじっくりと観察した事は無い位には観察し倒した。

天彩峰里さんのシンプルでもキラリと光るセンス。小春乃さよさんはカジュアルな中にも上級生娘役らしい品格を失わない。水音志保さんの普段の娘役では見られない遊び心を取り入れたセンス。カジュアルの天才だった。花宮沙羅さんの溌溂とした個性にピッタリの色使い。髪型や小物遣いが絶妙で可愛かったな。夢風咲也花さんは清楚なお姉さん系のアクセサリーが多かった気がする。有愛きいさんの笑顔に負けないぐらいの可愛いコサージュ。彩妃花さんのガーリーな甘めのアクセサリーがあの笑顔にぴったり合っていた。愛未サラちゃんはパッション全開の派手目なアクセサリー。可愛い=美星帆那ちゃんのキャラクター全開、ハートのアクセサリーはもーーー反則!風羽咲季ちゃんはこうやって見るとまだまだ下級生なんだな~これから色んな事を学びつつ、今の彼女らしい等身大のチョイスは微笑ましかった。

色とりどり、それぞれの娘役さんの個性が垣間見えるアクセサリーたちを眺めていて「可愛かったな~」なんて思いながら、マチソワの合間に寄ったお店でピアスに一目ぼれした。私が花宮沙羅さんだったらあの場面でこれを選ぶなと思って選んだ。

ピアスをイヤリングに変えて貰えないかと聞いたが、コンバーターを持ち合わせていない。同じデザインのイヤリングは売り切れてしまって…と申し訳なさそうにされている作家さんに「私、これを機にピアス開けますわ」と口にし買った。

IZM遠征を終え、持ち帰ってよくよく見てみたらどこにも花宮沙羅さんの要素はなかったし、そもそもどっから花宮さんが出て来たんやって話だけど(笑)だけどこれはこれで素敵だなと思って選んだものだ。黒いストーンが映えるコーディネートを思い浮かべつつ、ピアスを開けるクリニックを探した。元々アクセサリーは余りつけないしピアスを開けようと思う理由が無かった。真面目とズボラが混在するA型なので、穴を開けた後のメンテナンスに自信が無かったのもある。そんな私がピアスに一目惚れをし、ピアスを買って、ピアスを開けると言う決断に至った。

ふと、母が生きてたら「親が産んでくれた大事な身体に~」と言うだろうか。言うだろうな。母親の言葉=人生決めるってぐらい大きいものだ。

長年、無意識の言葉の呪縛があった。

母は田舎の貧乏暮らしで七人兄弟の末っ子。戦争未亡人の片親に育てられ高度成長期真っただ中の頃に都会に嫁いだ姉を頼って上京。昼は事務職・夜はキャバレーの裏方でWワークをし資金を貯めて20代で小料理屋を開店。そこの客が連れて来たダサい冴えない男が将来の伴侶となる人だった。そのダサい男の客は30歳過ぎても実家暮らしで、ママ(私の祖母)が入院して家の事何もできない洗濯が出来ないからパンツがなくて困っている所「洗濯したるから持ってこい!」と言った事がきっかけで結婚。色々な苦労はあったが父の会社を軌道に乗せて悠々自適な老後を送っていた。そんな感じの人だ。

良い人生を歩んできたと思っている。時代にも恵まれた中で、娘も同じ道をたどれば幸せになれるだろうと信じて止まなかった。娘の生きる平成と言う時代は、建前では男女平等だし共働きが当然。高校の懇談で「女性が大学に進学すると生意気で嫁の貰い手がなくなる」と発言し女性の担任に「いつの時代ですか」と呆れられた。私まだ独身やで!

「一人っ子は可哀そう」「一人っ子はワガママで社会性が無い」「育て方を間違えた」と散々言われて来た。一人しか出産出来なかったのはそっちじゃないか、と思っていた。

子供の頃におやつを食べていたら「お母さんも食べると言わないのか」と言われた。が、いる?と聞いたら聞いで「いらん」と言うので、次は聞かずに食べると…と言う事を繰り返されていた。「だから一人っ子は」と言われても私だって友達が居たら聞くし意味が分からなかった。大人になって気づいたが、母の幼少期のコンプレックスから所以するものだと思う。母子家庭で貧乏で苦労して成り上がった私と経済的に不自由しない娘。多少の嫉妬があったのだろうな。人間二面性があるよね~どっちも正しい感情だよねと大人の私は思う。子供の頃の私は「知らんがな」やけど。

大人になりサービス業に就いた私に「そんな不規則な仕事」「9時17時の事務員でアフター5でテニスサークルなどに入りそこで出会った一流企業の適齢期の男性と結婚し専業主婦」と、今平成ですよ?と言いたくなるような事をさんざん言われた(ちなみにこのモデルが私の年上のいとこ)彼氏を連れてくると「年収は?お勤めは?」から入るし彼氏の携帯に電話を掛けてくるのでそれ以来異性との付き合いが遠のいた。

25歳ぐらいの時だったかな。

散々「育て方を間違えた」「だから一人っ子は」と言われ続けて来て、挙句楽しく働いている仕事にまで口を挟みだしたので怒った。一人っ子で生まれたのは私の責任じゃない、デスクワークより人と接し動いてる方が好きだ。私が決めた仕事に口出しをするな。お金を出してやってるのに…(実家暮らしだった)とか、親に歯向かうなんてみたいな事を言われたが、最終的には娘の余りの剣幕に呆気に取られて、ばつの悪そうな顔で「冗談やんか…」と言う母に間髪入れずに「育て方を間違えたなんて言われるのが悲しいし辛いんや!!」と怒鳴り返した。時同じくして、母の一番の親友に「娘は娘の人生や。時代が違う。幸せなんてあんたの物差しで測るな」と説教をされた。それも相当堪えたらしい。母のいい所は素直な所で、娘は娘の人生だしそんな時代なんだなーと気持ちを改めたらしい。

それ以降、亡くなるまでは頼れる女性の先輩だったし女友達だった。よく休日にランチに出かけたし、宝塚巴里祭でおめかしした私を見せたら心から喜んでくれた。最後まで私の人生を一緒に楽しんでくれた。息を引き取る最後の言葉は「あんたはしっかりしてるから大丈夫やわ」(父が生きていけるかを心配していた)(生きてるよ)(パンツ1枚だけで洗濯機掛けるけど)

なんだかんだ、人生の大事な決断はいつも自分で決めていた。

20歳の時にどうしてもハワイに行きたかった。ひとりで海外旅行なんて!!と大騒ぎされたが自分でパスポートを取りに行き旅費を貯めた。「せめて添乗員のいる団体ツアーで」と渋々許してくれ憧れのハワイに行った。社会人になり一人弾丸でヨーロッパ旅行もした。母にだけ内緒で進めていたが帰りに航空会社のストライキに遭いバレた。何のアルバイトをするかも、今の仕事に就く事を決めたのも、ユニット名北朝鮮のジョンイル(リーダーのお局)に嫌気がさして辞めると決めた時も(笑)

今だって大きな決断を下そうとしている。

母が居ても居なくても私は私の人生なので私が決断するのだ。

今の私なら「産んでくれてありがとうやけど、私の身体は私のものなので」と言うだろう。きっと言えると思う。