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「画材の視点からバンクシーを考えると、アーティストというよりも◯◯◯」という仮説を立ててみた

前回のnote、

『中田敦彦のYoutube大学』の「アートの見方」をもとにして、「アート(芸術)」と「画材」からいろいろ書きました。

「アートの見方」がUPされたのは2020年6月上旬ですが、そのおよそ1ヶ月後に、「バンクシー」がアップされました。


これらの動画で、バンクシーのおおよその概要を知ることができました。

前回のnoteでは、常識破りの「芸術作品」を「画材」に着目する形で考えてみました。

じゃあ、バンクシーはどうなるだろうか。

前回に懲りず、あれこれ前回以上に自分勝手な仮説を立てて考えてみました。

バンクシーとペスト

2008年に、ストリートアートを除いたバンクシーの制作物の真贋を扱う認証機関「ペストコントロール(Pest Control)」を用意しました。

「ペストコントロール(Pest Control)」は、バンクシーが2004年に作成したネズミをモチーフにした『ペストコントロール』が元になっていると思います。
意味は「有害生物防除」。

もちろん、というか推測ですが、「ペスト」は疫病である「ペスト(黒死病)」も暗示していると思います。

バンクシーのメジャーなモチーフであるネズミは、ペストの媒介者です。

疫病は、ある意味バンクシーの活動の象徴ともいえます。
なぜなら「反戦争・反権力・反資本主義」を掲げていますが、戦争・権力・資本主義を脅かせる存在として、最有力候補が疫病だからです。

その辺の事情は、奇しくもCOVID-19(新型コロナウイルス)の一連の情勢から、肌身で感じることとなりました。


バンクシーとキルロイ

バンクシーの活動を考えると、ふとある有名なグラフィティ、の関連性が気になりました。
あるグラフィティ(落書き)とは、

Kilroy was here(キルロイ参上)

第二次世界大戦前にあらわれた、誰が描いたのか分からない神出鬼没の落書きです。
1950年頃には廃れたそうですが、どっこい地味に戦地ではまだ誰かが描いているようです。
さらに、キルロイをモチーフとして、文学・音楽・映画・漫画・ゲームなど様々なジャンルに取り上げられています。

バンクシーも、ストリートアート以外に、アニメ(『ザ・シンプソンズ』)や音楽(パリス・ヒルトンのパロディCD)に出没しています。

バンクシーのストリートアートは、全くの第三者による模倣も少なからずあります。
それを逆に利用して、どこでもバンクシーとする戦略も取ることができます。つまり、

ペスト(疫病)的
BANKSY WAS HERE(バンクシー参上)

です。
ただ、そうなると、ストリートアートで描かれたものは、芸術品というより、「バンクシーはここに来ましたよ」という(やってることは違法だけど)スタンプ(ぶっちゃけ、印鑑のような実用品)になってしまう。


……まあ、グラフィティ(落書き)自体、そういう傾向ですが。


バンクシーと画材

前回のnoteで、ポロックさんの「絵の具(画材)を撒き散らした」絵画の「画材」について考えました。
ポロックさんの絵画は、

画材芸術品と言い切る

ことで(それだけの技法の上のことですが)、絵画として扱いました。

あれ?もしかして、バンクシーをキルロイ化するというのは、真逆かも知れない。
つまり、

バンクシーの作ったものは、
芸術品ではなく、
実は「画材」

かも。
……いやあ、無茶苦茶言ってますね。

しかし、バンクシーが製作した映画について考えてみたときに、トンデモない仮説を思いついたのです。

バンクシーの映画はドキュメンタリーでないとすると、
映画の出演者は、
バンクシーの作った「画材」を用いて表現した、
アーティストもしくはアートテロリストである。

つまるところ、

バンクシーの「映画の出演者画材」は、
バンクシー製「画材」の疫病に感染した
アーティストもしくはアートテロリストである。

その前提で、『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』、『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』、『バンクシーを盗んだ男』などを観ると面白いかも知れません。


第三者は、バンクシーをアーティストやらヴァンダリスト(芸術破壊者)などと様々にラベリングをしてますが、いわゆる

意趣返し(ブーメラン)

をきっちり行っているのではないかと。

さらに、バンクシーの制作物を「画材」とすることによって、また別の見方ができることがあります。
バンクシーの制作物を見せる「場所(イベント)」です。
それをいいかえると、

「ギフトショップ(Gift Shop)」

ではないかと。

バンクシーとギフトショップ

2009年に『バンクシーvsブリストル美術館(BANKSY VS BRISTOL MUSEUM)』が開催されて、そこに置かれた制作物の1つが『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ(EXIT THROUGH THE GIFTSHOP)』です。

バンクシー製作の最初の映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』のタイトルは、ここから取られているようです。

通常の文脈では、ギフトショップを「美術館・博物館に設営されている土産店」であると読むようです。
なので、「土産店を寄らない出口はこちらです」のような意味合いになります。

では、『バンクシーvsブリストル美術館』そのものを「ギフトショップ」とすると、どうなるでしょうか。
まあ、「会場を素通りして出ていく」程度の意味でしょうかね。
一方、土産店でも同様に「土産店を素通りして出ていく」でも通用します。

ただ、土産店から出た人を見たら、心理的にこんな邪推が出てきますよね。

(素通りしてようが)絶対なにか買ってるはず。

本当に何も買ってなくても、なにかしら身につけているものが実はギフトショップで買ったやつだ、と勝手に妄想してしまいがち、ではないかと。

じゃあ、こんな仮定をします。相変わらず無茶苦茶です。

素っ裸で、ギフトショップに入ります。
何も買わずに、店を出ます。
当然何も持っていません。
しかし、その人は絶対なにかを
買って(もしくは万引して)います。


それは、バンクシーになれる才能(ギフト)です。


しかし、バンクシーのようなアーティストになれるのかといえば、そんなことはなく、むしろ「画材」を手にした本人の天性の才能(ギフト)が(映画を観れば)むきだしになっている。

……本性が露わになる。
いやあ、芸術って、怖いや。


バンクシーを無理矢理の仮説でこじつけ、遊んだ

ええ、まあ本当に自分勝手に考えました。

とはいえ、暴走しっぱなしではなくある程度の抑えとして、毛利嘉孝さんの著書を参考にしました。

今回書いていない仮説も考えましたが、この新書のおかげで修正したり取りやめたものもあります。
助かりました。
とはいえ、助からないまま、たくさん恥を晒しております

で、タイトルの回収です。

バンクシーはアーティストというよりも、ということです。
以前、こんな記事を書きました。

ここで、Art(芸術)と対をなす類似したものZrt(ズート)を取り上げました。
Zrt(ズート)は造語なのですが、スポーツやボードゲームのように、それ自体は芸術のような表現ではないが、それに基づいて試合など表現したものは芸術と同じとなるもの、そんな概念です。

なので、あえてこの言葉を使うと、

バンクシーはZrtist(ズーティスト)

ではないかと思い至りまして、今回の記事と相成りました。

……まあ、無理矢理な仮説でここまでよく書きますよね。ほんと。


しかし……Zrt(ズート)なんて造語を出さずに、別な既存の言葉で表せないものか、とも思います。
探してみました。
ありました。

第二芸術。

ただ、この言葉で「ギャー!」と悲鳴を上げるかも知れないジャンルがあります。
それは、俳句です。
1946年に「第二芸術論」という桑原武夫さんの文章が発表されたのですが、それは俳句的に対してのメタクソ強烈の批判的内容でした。

俳句にとっては、少なからずトラウマとなっている概念「第二芸術」。
しかし、すでに60年以上経過しています。

改めて「第二芸術」を違った角度――それこそ、Zrt的な考え――で捉えてみてもいいのでは、と思います。

まあ、「第二芸術」についてのあれこれは、そのうち書こうと思います。
なにせ、他に書きたい記事をじんわり積み上げておりますので。はい。

では。


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