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5年ぶりに小説を手に取った私の『コンビニ人間』を読んで思ったこと
私は大学まで電車で通学している。
そして、車内では大抵の場合、スマホを手にして、そこに浮かび上がっている雑多な情報に目を通したり、オンラインゲームのカードやキャラクター達が自分の意思に動き動かずするのを眺めていたりしている。
ある日、いつものように大学に向かおうと家を出る私に小さな災いが起きた。
自分のスマホが見当たらないのだ。
自分が置いていそうな場所をいくら探しても見つからなかった。
このままでは車内の時間を潰せない。
そう思った私の頭のどこが刺激されたのか、いつだかに知人から貰ってから机の上に雑然と置かれ続けていた『コンビニ人間』を手に取った。
そこには、文字がただ並べられているだけではなく、音や景色が放たれていた。
小説が原作の映画はよく観るのだが、紙面の奥に広がる世界に飛び込むのは5年ぶりだった。
最後に読んだ小説が何だったのか忘れているほどだ。
私がその5年の間によく入り浸っていた映画では、構造論的には、最初の導入シーンにその作品の鍵が描かれることが多い。
「コンビニエンスストアは、音で満ちている」
この作品の書き出しから、音が何やらキーになるのだと、作品に入り込んだ私(=ぞうすけ)の耳を澄ませていった。
人の言動はもちろん、それらに合わせて発生するコンビニの商品の音たち。
傾聴していたからかもしれないが、作者の音への感性の鋭さに驚き、そして文字に音を奏でさせる表現力に感嘆した。
音が表現の一つに当たり前のように含まれている映画では感じることのできない情感であり、文字が放てる情景の無限性を感じた。
さて、主題を変えるが、主人公は、思春期からコンビニの従業員として働くまでの間、社会との交信を遮断していた。
そして、働き始めてからというもの、コンビニで働く周囲の人間の言動を吸収して、自身を構築していき、自身が「普通」の人間を演じられていると思っていたが、妹達には「普通」ではないと言われてしまう。
「普通」って一体何なのか。
これについて、最近私もよくわからなくなってきている。
半年前まで就活をしていて、様々な人に出会い、様々な話を聞いてきた。
出会う人が増えれば増えるほど、自分にとっては当たり前であることも当たり前ではないことにも直面した。
コロナ禍に幼稚園や小学校低学年を過ごした子供にとっては、もはや今こそ普通ではない生活を園や学校で送っているのではないか。
主人公は、自身の「普通」の鏡となるソースをほほコンビニしか持っていなかった。
そのため、いわゆる偏りのある人間に変貌を遂げた。
何が「普通」であるかは、人それぞれであるが、見栄っ張りであり、より多くの人の「普通」と同じでありたいと思う私は、広いコミュニティを持ち、広い視野を持てる人でありたいと改めて思った。
私は、来年から就職して社会人になる。
その企業、その部署内でコミュニケーションを完結させてしまうと、仕事においても社会人としても、側からみたら「普通じゃない」ことなりかねない。
また、私はメーカーに就職するが、世間の各人の「普通」と「普通じゃないこと」を認識し、ターゲットを考え、そこに浸透する商品を生み出したいと思っている。
多くの人との関わりや声をまずは得たい。
今回のところはここで筆を止めようと思う。
また別の文字から広がる世界に入り込みたいと思ったので、私の机の上で『コンビニ人間』の下に重ねられていた世界に今度は行こうかな。
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