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浅倉透の不在:偶像・フィードバックループ

アイドルは皆、自身が偶像であることと同時に、それぞれにとっての「憧れの具体的なイメージ」を併せ持っている。この像を基準に、なりたい自分を追求したり、時に乗り越えたりするのだが、その点において浅倉透は特別だ。自分の持っている「憧れ」を具体的にイメージすることができないからである。

そのため、透を含めたノクチルの中心には、ブラックホールのような強い引力を持った「憧れのヴォイド」が存在する。そして、彼女の形のない憧れは、幼馴染を通して具現化されることで初めて発見されるのである。このような旋回を経て、それぞれのアイドル像を見つけていく。ノクチルとはそういう物語なのではないだろうか。


より詳しく

浅倉透の絡むシナリオは、なんというか中心性を欠いていて、彼女同様つかみどころがない。

物語というより出来事の断片だから、というのもあるだろう。情報が意図的に曖昧にしてある。その行間に私たちはさまざまなストーリーを見出すので、解釈は千差万別、もちろん正解があるわけじゃない。

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ただ、ノクチルのストーリーとしての、最小の骨組みみたいなものはあるはずで、ここではそれを私なりに一度整理してみたい。そのため、範囲はイベントコミュ「天塵」と「海へ出るつもりじゃなかったし」のみとした。

偶像=憧れのイメージ

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The Fall of Icarus, 1975 - Marc Chagall

まずとっかかりとして、プロデューサーの高山氏のインタビューを踏まえてみてみると、少なくとも注目すべきノクチルのコンセプトは

「最初から完結している四人の関係性の変化」
「既存のアイドル像をどう回避するか」

の二点だと言えるはずだが、まずここでは前者にフォーカスを絞ろうと思う。なぜかというと、どのアイドルにも共通して描かれるテーマである

「偶像=憧れのイメージ」

に関係してくるからだ。

幼馴染間で完結してしまっている憧れのベクトル

スクリーンショット 2021-04-16 @241514

Das Planeten System, 1822 - Friedrich Haller von Hallerstein

アイドルとはなんだろう?

ここでは、それは「憧れのイメージ(像)」であると言い切ってしまおう。アイドルの直訳が偶像だとすると、それは具体的な信仰対象もしくは信仰対象の具体化だ。重要なのは、アイドルを目指す人間もまた、憧れのイメージを持っていて、それぞれが前に進んでいくモチベーションに深く関わっているということだ。果穂さんにとってのヒーロー像、冬優子にとってのふゆ像、千雪さんにとってのアプリコット像、にちかにとっての八雲なみやアイドルそのもの...

アイドルのそれぞれにとって「憧れのイメージ」が多様であるならば、それぞれが「どうなりたいのか」は必然的に彼女たちの個性を形作る大きな要素だろう。

(もしかするとこの憧れの強さを感じることが、シャニPのいう「輝き」を感じるということなのではないだろうか。)

さて、これらを踏まえてノクチルの面々はどうかというと、彼女達のテーマである「最初から関係性のある四人」というコンセプトは、言い換えれば「幼馴染間で完結してしまっている憧れのベクトル」として表現されていることがわかる。

そのディティールやニュアンスは解釈が別れるところなので割愛するけれど、大枠としては

「浅倉に向かう樋口・雛菜の憧れと、他の三人に向かう小糸の憧れ」

が出発点と言っていいだろう。そして、浅倉はどこに向かっているのかわからない。ぽっかり空いたブラックホールの周りを憧れのベクトルが旋回しているような関係性である。この関係性がどのように変化していくのかを追っていくことが、ノクチルのメインシナリオを読むための一つのガイドラインといえるはずだ。

浅倉透の無意識

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Half awake and half asleep in the water - Asako Narahashi

浅倉が動かなければ、他の三人も動かない。

そこで気になるのは浅倉透の「憧れのイメージ」だ。彼女はどこへ向かうのか。ここがノクチルの面白いところで、浅倉は「憧れはあるけれど、それを具体的にイメージすることができない」というキャラクターなのである。これはどういうことか。

「海に出るつもりじゃなかったし」のEX3話で、重要な秘密が明かされる。それまで「モノローグ」のように描かれていた彼女の一人語りを、彼女自身は覚えていないというのだ。夢のようなものだったと。

そのため、浅倉の一人語りが、彼女の深層心理の表現であるということは押さえておくべきポイントだろう。「夢(目標)」と「夢(レム睡眠)」が同化している。

彼女の一人語りは、常々「ここではないどこかへの憧景」として描かれてきた。これは、彼女が幼馴染の中で、唯一最初から"どこか"へ向かうモチベーションを持っていたことを示しているのだが、それは彼女の「無意識下のイメージ」でしかないので、自分でそれに気づくことができない。

このこう着状態は、どのように変化していくのだろうか。

幼馴染を通して、ループはほつれていく

Magic Mirror, 1946 - M.C. Escher

浅倉は、憧れを自分でイメージすることができない。そもそもそういうものがあるのかどうかさえわかっていない。

しかし、浅倉のぼんやりとした憧れは、浅倉を通して、それを追いかける他の三人に分け与えられる。そこで初めて、浅倉は自分の潜在的な「憧れのイメージ」を、幼馴染たちを通して初めて発見することができるのである。自分の姿を自分で意識することができない浅倉が幼馴染三人に服を分け与えるのも象徴的なエピソードだろう。

偶像とは、「憧れのイメージ化(具体化)」だ。であるならば、浅倉にとっての偶像とは、自分自身の無意識を反映した幼馴染たちであると考えることができないだろうか。

そして、その浅倉自身が、他の幼馴染にとっての偶像であるとともに、その流れの中で樋口・雛奈・小糸は各々の興味も発見していくのである。

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憧れ:(浅倉の無意識)←浅倉  ←樋口・雛菜  ←小糸

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イメージ化:浅倉→ 樋口・雛菜・小糸(翻訳、具体化された浅倉の無意識)+(それぞれの外部への憧れ)

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このループを経て、夢・無意識が現実化していく。それぞれの個人的な憧れを混ぜつつ。そのショートサーキットの過程で、小糸から、雛菜、樋口と、外への憧れを言及・具体化するのである。この、少しづつ解けていく4人の関係性が、現時点でのノクチルの変化と言えるだろう。騎馬戦では空中分解してしまったけれど。

「海へ出るつもりじゃなかったし」に関しては詳しくはこちらにも

こうやって、4人の「憧れ」と「そのイメージ」を視点に関係性の変化を追っていくと、ノクチルの断片的な出来事に一つの筋が通って見えるのではないだろうか。

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Children's Games,1560 - Pieter Bruegel

そして

「既存のアイドル像をどう回避するか」

というテーマに関して、私がまとめるより良いなと思う記事がいつくもあるのであえて割愛しますが、私としては、ノクチルの逃避はいわゆる逃走であり、今後彼女たち自身がどのようなゲームに倒錯できるのかというところが見どころなのではと思っています。



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