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産卵(短編小説

 ある朝目覚めると、へその下に奇妙な膨らみがあった。テニスボールほどの大きさで、立ち上がると少し重たい。子宮の辺りだと思い婦人科を受診すると、医者はエコーを当てながら、「これは卵ですね」と事もなげに言う。
「窓から入ってきた蛇にでも、産み付けられたのでしょう」
 そう言って腹の中を写した画面を「ほら、もうこんなに育ってる」と見せてくる。
 血の気が引き、言葉が出ない。
 診察が終わってから「どうしたらいいんですか」と声を絞り出したが、会計の女は「私に聞かれても」と言って笑った。

 ワンルームの玄関を閉める。
 医者が言うには、早ければ今日の夜、産卵が始まるという。人間と違って産んだ後の責任はなく、出てきた卵は外に放っても便所に流してもいいらしい。
 膨らみに手を当てると、張った皮膚の下には確かに何かがあり、僅かに動いた気さえする。指先はつめたく、感覚がない。両手を握りしめ、ベッドにもぐり込む。卵の重量で下腹部が引っ張られる。吐き気を堪えながら、皮脂の匂いがする枕を抱き、きつく目を閉じる。

 十四歳の時、母が死んだ。
 父は泣き腫らした目で骨壷と遺影を見つめながら、これからは二人で頑張ろう、と言って私の手を握った。父が女と歩いているのを見たのは、高校二年生の冬だった。駅前の商店街で、女は父の腕を取って笑っていた。母とは似ていなかった。
 
 高校卒業を機に、東京にアパートを借りた。引越しの準備をしている頃、女が家を訪ねてきて、私を下の名前で呼んだ。わざとらしくて、嫌な女だった。母がしていたみたいにキッチンに立って、それを父が笑いながら見ているのも嫌だった。
 この女の子どもになりたくない、と思った。

 下腹部の痛みで目を覚ます。外は暗くなっていた。激しい痛みの波に、腹を抑える。起きあがろうとして体勢崩し、そのままカーペットに倒れる。うーうーと声を出すが、痛みは強くなるばかりで、顔を力ませると目の端から涙が落ちる。
 もう立ち上がれない。スウェットのズボンと下着をずり下げ、剥き出しになった下半身に、震える手でベッドから落ちたタオルケットを巻きつける。獣のようなうめき声が、喉の奥からこみ上げる。遠くなる意識の中で、おかあさんと声がして、よく聞くと私の声だった。あまりに孤独で、終わりのない、そういう痛みだった。荒い呼吸、脂汗をかきながら、いきんで、やめてを繰り返す。随分長い間そうしていた。死んでしまう、と思った。ふいに出るという感覚がして力を入れると、ぼとっと鈍い音がした。
 霞む視界のなかで、粘膜に包まれた白い卵が股の間から転がるのが見えた。体から力が抜け、目を閉じる。深く息を吸い、吐き出す途中で涙が出て、声をあげて泣いた。

 転がった卵を見ていると気持ち悪くて仕方なかった。だけど、この命を捨てる勇気もない。気持ち悪い。なかったことになればいい。そう思いながら、私は卵が孵るのを待つのだろう。
 乾いた唇を舐めると、涙と鼻水の味がした。

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