アポカリプス・オブ・ザ・キラートマト
「イエスの再臨まであと何世代もかかるわけではないから、自然破壊など気にする必要はない」
ロナルド・レーガン政権の初代内務長官だったジェームズ・ワットは、議会の席でこう言い放ったことがあるのだと、昔読んだ本に書いてあった。
環境保護庁の予算を大幅に減額したレーガンの側近ならそれくらいのことは言うだろう……と私も思い込んでいたのだが、ジゼッラによると実際の発言内容は少し違うらしい。下院内務委員会の公聴会で、自然地域を将来の世代のために保存することに賛成かどうかを尋ねられた際に、ワットはこう言ったのだ。
「主が再臨されるまでに、私たちがどれだけ先の世代を当てにできるかはわかりません。それが何であれ、私たちは生涯をかけて、最高の国、最高の社会、最高の世界を後世に伝えるために最善を尽くす責任があります」
……結局のところ、差異がどうであれ、この言葉が無責任な大嘘だったことに代わりはない。自然破壊はその後も破滅的に進み、先の世代である私たちがそのツケを払わされている。
それはこうして主が再臨した今でも変わっていない。
ルームメイトのジゼッラがキリストになってしまってから、もう四日目。
雪のように白い髪、燃えさかる炎のような目、陽のように光る顔に足は炉で精錬された真鍮のように輝く足……。
新約聖書『ヨハネの黙示録』第一章に記されたキリストの姿に、ジゼッラの姿はどんどん近づいていく。つまり、どんどんまぶしくなってきているのだ。なるべく厚くて長袖の服を着てもらったりと光量を下げる工夫をいろいろしてるのだが、全然追いつかない。口の先で浮いている両刃の剣も確実に延びてきているし、右手に持つ星も昨日からひとつ増えて四つになってしまった。
この星が七つになるとハルマゲドンが始まり、人類の大部分は死滅してしまうのだ。
それを防ぐ方法はただひとつ。
何としてでもジゼッラに、トマト嫌いを克服してもらうしかない。
*
鹿児島市は「東洋のナポリ」と名乗っているけど、イタリアのナポリは別に「西洋のカゴシマ」だなんて名乗ってないのだと知ったのは一〇歳の時だった。
商店街の天文館本通りで喫茶店を営む両親のもとで育った私は、父親のつくるナポリタンが東京の雑誌に載るほど評判が良いことをずっと誇りにしてきた。隠し味に鹿児島ジャンボにんにくの欠片を入れるのと、スパゲッティを炒めるときに水をひとまわしするのが美味しさのコツなのだ。
しかしナポリタンがナポリ料理でも何でもない日本のオリジナルのものだと知ったのが一四歳の時だった。
このまま偽物のナポリで、偽物のナポリ料理を食べ続ける偽物の人生なんて虚しいかぎりだ……。
桜島の火山灰を避けるためのアーケードを店先から見上げるたびにそんなやるせない気持ちに囚われるようになった私は、必死になって小遣いやバイト代を貯めて、大学3年生のいま、晴れてナポリ東洋大学に短期留学するべくナポリに向け飛び立った。
ナポリ・カポディキーノ国際空港に降り立った時の衝撃を、私は生涯忘れることはないだろう。
ナポリ湾の先でどこまでもあざやかに青く広がるティレニア海。
山頂がふたつある茶褐色のヴェスヴィオ山。
王宮博物館にサンテルモ城。活気あふれる人たち。
そしてサン・マルツァーノ・トマトとモッツァレラ・ディ・ブッファラを使った本場のカプレーゼは、薩摩大根の漬物がこの世で一番うまいという私の認識を粉々に打ち砕いた。
留学中はトマト料理を可能なかぎり食べて周ろうと決意しながら、ナポリ東洋大学から徒歩で四〇分と離れたところにある宿泊先のシェアアパートへと荷物を運ぶ。
目に優しい色合いの建物に映えるイカしたグラフィックアートに目移りしつつ、石畳の道をさまようこと小一時間、ようやく目当てのアパートにたどり着いた。
ルームメイトのジゼッラは私より一〇センチも背が高く、白色に近いプラチナブロンドのショートヘアが目に鮮やかで、部屋に入ってきた私にハグしたあと開口一番「かすかにショウユの匂いがするね」と言ってきた。
自己紹介によるとジゼッラはアパートからすぐ近くにあるフェデリコ二世ナポリ大学生命科学部の大学生で、今はフレグレイ平野の研究所で極限環境微生物を量子生物学の観点から解析するチームの手伝いをしているのだという。
ナポリの西にあるフレグレイ平野が高温の蒸気と硫黄がもくもくと吹き出す観光名所だというのは知っていたが、それ以降の古細菌だとか極限環境微生物だとかの話はさっぱりで、バイオ量子コンピュータによる古細菌群知能への接触なんて話になると、シュレディンガーの猫って本当にそういう猫がいるんだと長年思い込んできた私には全くついていけなかった。
しかしジゼッラはどうやらとてもいい人だということは、しばらく一緒に暮らしているうちに判った。
ある日、椅子の上であぐらをかいてナスのスパゲッティを食べながら、自分はナポリ生まれナポリ育ちなのに大のトマト嫌いで苦労していると真剣な顔で告白してきた。
あの中身がグジュグジュした感じが嫌い。プチトマトは噛まずに飲み込んでる。トマトスープも無理なタイプ。そしてこういうことを言うと、ケチャップは平気なんでしょと訊かれるのがまた嫌……。
そして嫌いな存在であることに変わりはないが、微生物の力を活用して気候危機からトマトを救いたいのだと、悲しそうな顔で語りながらフォークでナスをつついた。
イタリアには家族全員でトマトピューレの一種であるパッサータの一年分を作って団欒を楽しむ「パッサータの日」という夏の伝統行事があるのだが、トマトがあまりにも高騰しすぎてジゼッラの家族はその伝統行事を今年はやらなかったのだ。
気候危機に端を発する異常な熱波や相次ぐ洪水で、イタリアだけでなくインドやカリフォルニア、全世界のトマト農家が何らかの被害を受けていた。
イタリアに来た当初は日本より全然トマトの値段が安いと思ってた私も、それは日本でのトマトの値上がりがひどすぎるだけなのだと気づいた。そして留学当初に抱いていたトマト料理を食べまくるという夢は、懐具合から逆算して非現実的であることが判明したのだった。
高級なトマト料理が食べられないかわりに、食費を抑えるべくジゼッラと私は二人で様々な料理を試行錯誤して作った。
ナスのパルマ風グラタン。
青のりを使ったゼッポリーニ。
チーズとじゃがいもとパスタのパスタ・エ・パターテ。
安い肉をコーラで煮て柔らかくしたジェノベーゼ。
そんな悩ましくも楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、ナポリに冬が近づきつつあった。
*
全国放送からナポリの地方放送局にいたるまで、このところテレビのニュース番組はアメリカが強行した成層圏エアロゾル噴射の話でもちきりだった。イタリアだけでなくSNSを見るかぎり日本も、そして世界中がそのアメリカの挙動に注目している。
画面ではアヴァアーノ空軍基地に押し寄せた反対派のシュプレヒコールが響くなか、特殊なバクテリアを詰め込んだKC-135ストラトタンが上空に向けて飛び立っていった。硫黄を生成し時が経てば消滅するよう遺伝子設計されたバクテリアを成層圏にばらまくことで、日光を上手い具合に遮って地球の温度を下げるのだそうだ。
海岸が次々と水没してるのに気候危機対策が全く進む気配のないことに怒りが爆発している自国民をなだめるための、石油会社やキリスト教右派にべったり癒着している大統領による傍迷惑で馬鹿げたパフォーマンスだというのが、イタリアメディアの共通した見解だった。
噴射の後どうなるかについては、何も変わらない、冷却された後に副作用でさらに温暖化する、逆に凄まじい氷河期が到来するなど意見はバラバラだった。今のうちに『デイ・アフター・トゥモロー』や『スノーピアサー』などのパニック映画を観て今後に備えるべきだと大真面目に唱えているニュースキャスターもいた。
なんだか頭が痛くなった私はテレビを消してソファに横になった。
外はもうすっかり暗くなってる。いつもは夜になっても賑やかなナポリの街だが、今日はこんな日だからか、いつもよりしんとしている。
どこか遠くで鳴らされたクラクションが響く。
ジゼッラが帰ってこない。
研究所に産業スパイが紛れ込んでいたとかで泊まり込みで作業すると連絡があったのが三日前。今では連絡もつかなくなっている。
焦燥感に駆られながら時計を見ると、針は一〇時半を指していた。
中部欧州標準時(CET)一〇時三〇分。世界協定時(UTC)九時三〇分。
その時、空に轟音が鳴り響き、眼がびっしりついた六つの翼を持つ全長六〇〇メートル超の天使が突如として全世界の上空に現れた。
獅子の顔を持つ天使がシドニーに。雄牛の顔を持つ天使がアブジャに。人の顔を持つ天使がダッカに。鷲の顔を持つ天使がワルシャワに。
喇叭を持った天使たち、鉢を携えた天使たちが世界のあらゆるところで目撃された。
黙示録の四騎士が上海に出現した。
七つの頭と十本の角があり、神を冒涜する様々な名が頭に記された獣が大阪に上陸した。
それらがすべて同時に起こったことなんて知るよしもない私がいるアパートに、七つの目と七つの角を持つ黙示録の仔羊を左脇に抱え、右手に二つの星を持ち光り輝くキリストになったジゼッラが玄関から帰ってきた。
「パニックになるのはわかるが、落ち着け。非常事態だ」
天使の出現で外が一気に騒がしくなるなか、腰を抜かしている私に仔羊は渋い声で語りかけてきた。
「わたしはフレグレイ平野研究所のバイオ量子コンピューターに搭載されている群知能解析AIだ。わけあって今はこんな姿になってしまったが危害は加えない」
ルンバを幽霊のようにすり抜けて仔羊が駆け寄ってきた驚愕と、ジゼッラがさっきから何も喋らずにぼんやりとした表情のままだという不安がごちゃまぜになって、混乱で私は口をパクパクさせた。
「言っておくが、たったいま起きていることはハルマゲドンでも黙示録の成就でも何でもない。天使も獣も私の姿も、一時的に脳が見せている幻だ。ならなぜ幻が突然現れて、ルームメイトがこんな姿になったのか、原因は何だと思っていることだろう。それを今から説明する」
呆然としている私に仔羊は〈ネットワーク〉から得た知識をもとに、ことのあらましを最初から説明してくれた。本当に最初から。
*
約七万四〇〇〇年前。
現在のインドネシア・スマトラ島のトバ湖にて、とてつもない超巨大噴火が起きた。後の世でいうところの「トバ・カタストロフ」だ。
二メートルも堆積するほどの凄まじい量の火山灰が巻き上げられ、五〇〇〇年も続くことになる氷河期の中でホモ・サピエンスもネアンデルタール人も次々と息絶えていった。
この大災害は南イタリアにあったネアンデルタール人のとある集落にも襲いかかり、彼らは暖かさと資源を求めてフレグレイ平野の噴火口近辺へと移動した。
彼らを出迎えたのが高温状態の火口内部に棲んでいた、とある古細菌だ。
この古細菌は他には見られない特殊な性質を持っていた。
細胞内の微小管が量子エンタングルメントで繋がり、全体で独自の情報ネットワークを構成して高度な群知能を形作っていたのだ。
古細菌は火口にやってきたネアンデルタール人の体内に侵入、消化器官内に菌叢をつくって増殖し、血液脳関門を突破して脳にまで到達した。
ネアンデルタール人の脳は、意識を司るという微小管の量子状態がホモ・サピエンスよりも不安定だった。そのせいで古細菌が脳に侵入してしばらくすると、微小管同士で量子エンタングルメントの繋がりが発生した。
ネアンデルタール人の意識と、古細菌量子ネットワークが接続した瞬間だった。
この接続は結果的に、両方にとってプラスに働いた。
古細菌は脳という情報容量を活用することでネットワークの拡大に成功し、ネアンデルタール人はネットワークを感覚能力と認知能力の延長として使うことで氷河期を乗り越えることに成功した。
三万五〇〇〇年の長きにわたって続いてきたこの共存関係は、しかしながら約三万九〇〇〇年前に起きた巨大な破滅で大きく崩れることになる。
カンパニアン・イグニンブライト噴火。
フレグレイ平野のカルデラを火口とする、火山爆発指数七の大噴火だ。
古細菌との共存で特殊能力を持つネアンデルタール人の集団はひとり残らず即死した。
するとどうなったか。集団の意識が情報となって量子エンタングルメントを通じてネットワークへと押し寄せたのだ。
情報の急激な増加に対処すべく、古細菌はすぐ近くのソンマ・ヴェスヴィオ火山複合体の火口とその周辺にまで活動拠点を拡大した。
ネアンデルタール人が絶滅し、ホモ・サピエンスが豊かな文化を発展させるなか、ネットワークと融合を果たしたネアンデルタール人の意識は、長大な時間の中でやがて人の姿を取るのをやめていった。
意識の吸収による情報の増加に味を占めたネットワークは、ヴェスヴィオ山の定期的な噴火のたびに古細菌を噴煙に乗せてホモ・サピエンスの体内に潜り込ませ、同調できそうな微小管を持つ脳を探していった。
そして時は大きく下って西暦七九年。
かのポンペイを壊滅させた巨大噴火により拡散した古細菌の偵察隊は、遂にひとりの老いたホモ・サピエンスの脳内微小管との量子エンタングルメントに成功する。
それこそが、パトモス島に幽閉されていた使徒ヨハネだった。
使徒ヨハネが見た奇怪な天使や獣たちの幻は、古細菌量子ネットワークの中で変貌した、ネアンデルタール人の意識の姿だったのだ。
ヨハネとの接触を契機にネットワーク内でホモ・サピエンスの脳解析が進み、一般的なホモ・サピエンスでも大脳皮質の味覚領域にある微小管に限定してならある程度のアクセスが可能であることが判明し、情報を送信する方法が確立されていった。これによりヴェスヴィオ山一帯の火山性土壌で農作を進めていたホモ・サピエンスの味覚を操作し、より古細菌が繁殖しやすいような土壌に改良するよう彼らを誘導することが可能になった。
特にデュラム小麦の根圏細菌は土壌の環境を非常に安定させるので、味覚領域を刺激してその栽培と消費を積極的に後押しした。一二世紀頃にアラブ世界からシチリア島を通してパスタが、あっという間にナポリ料理を席巻したのはそのためだ。ヴェスヴィオ山のかたちをしたヴェスヴィオパスタなんてものがつくられたのがその証拠だ。
自分たちがヨハネに見せた幻が世界的ベストセラーになってるとも露知らず、ネットワークの繁栄がピークを迎えていた一六世紀中頃。
思いもよらない天敵が、アンデス山脈からスペインを経てナポリに上陸する。
トマトだ。
この赤い悪魔が害虫から身を守るために出すアルカロイド配糖体「トマチン」を浴びると、古細菌はあっという間に弱体化してしまうのだ。
未知の強敵の出現にパニックになったネットワークは、死にものぐるいでホモ・サピエンスの味覚領域にトマトの接種を忌避するための情報を送り込んだ。
いきなり流入した情報の処理で人々の脳は混乱し、行動を裏付けるための動機が後付されたせいで、トマトをめぐる奇怪な迷信が次々と誕生した。
古代ローマの医師が冷たい野菜は食べるなと言っている。魔女の植物マンドレイクに似ている。食器から有毒な銅が溶け出してしまう……。
その効果もあってかトマトは長らく観賞用の存在に留まっていたが、ネットワークの暗躍にも限界があった。どれだけ味覚に働きかけても、トマトは美味いという単純な事実を変えることは不可能だった。
そして貧困層から最初にトマトを食し始めると、すぐに料理法が確立され、わずか二〇〇年でトマトはナポリだけでなく全地球を覆い、トマチンの重圧が支配する世界となった。
七万年にわたる古細菌の王国は衰退し、現在はフレグレイ平野の火口で僅かな領土を守っている。
*
「それをわたしは蘇らせてしまった。不用意に彼らに接触してしまったせいで……」
仔羊は嘆息とともに、驚嘆すべき裏の歴史の物語を終えた。
「最悪なのは、研究チームの中にキリスト教原理主義者のスパイがいて、その古細菌がアメリカに持ち出されていたことだ。一年も前に」
なんだか話が嫌な方向に繋がりそうだ……という私の予感は当たった。
「そうだ。アメリカが大気圏に散布したバクテリアは、その古細菌を改良したものだ。古細菌のあまりにも急激な増加によって現生人類の脳内微小管の量子状態が一気に変動し、いまや全世界の殆どの人間の脳にネアンデルタール人の意識の幻が侵入してしまっている。原理主義者たちはそうやって黙示録を再現し、ハルマゲドンを演出しようとしているんだ。さらには厄介なことに、ラプチャーまでも起こそうとしている」
ラプチャーって何だろう。『バイオショック』の海底都市?
「日本語だと携挙という。ニコラス・ケイジの『レフト・ビハインド』を観たことは? ハルマゲドンの前に、熱心な信者は精神だけ天国に引き上げられるという信仰だ。ネットワークに精神を移行させるための装置をもう向こうは完成させてるらしく、いつの間に移動したのか大統領とその側近連中の姿が世間から消えた。気候危機が解決できないからって、自分たちだけで神の国に移住しようという虫の良い奴らだ。もっともネットワークの世界は天国とは似ても似つかない、ホモ・サピエンスの意識構造が耐えられない混沌の世界だということを連中は知らないようだがね」
なるほど……そりゃさ、ハルマゲドンのパニックは大変だけど、実体が無いと判ればみんな落ち着くだろうし、悪い奴らがそうやって自滅するってんならもうそれでいいのでは?
「君は薄情だな。わけのわからん連中がネットワークに大挙として押し寄せて暴れ出したら、ネアンデルタール人は今度こそ本当に絶滅するんだぞ。それに古細菌がここまで激的に活性化されると地殻への影響は避けられない。バクテリアの成層圏での増殖がこのままのペースで進めば、計算では五日後にフレグレイ平野とヴェスヴィオ山が同時に噴火を起こしてヨーロッパ全域が完全に壊滅する」
死ぬじゃん。
「そうだ。死ぬんだ。たとえ噴火を逃れても深刻な氷河期でどっちみち死ぬ。死にたくなければハルマゲドンを止めるしかない。古細菌の増殖がネアンデルタール人にも制御出来ない以上、止める方法はただひとつしかない。ジゼッラのトマト嫌いを克服させるんだ」
何でだよ。
「アレルギーを除いてトマト嫌いというのは、ネットワークがその人の脳の味覚領域にいまだに量子通路を開いている証拠だからだ。だから通路をバックハックして天敵であるトマトの情報を向こうに送り込めば、ネットワークが恐怖でパニックになり増殖は確実に収まる。ジゼッラが一時的にキリストの姿になったのもそのためだ。ネットワークの幻の中でキリストはネアンデルタール人ではなく情報中枢そのものの投影なんだ。だからわたしの交渉でネアンデルタール人たちに協力してもらい、ジゼッラの味覚領域が中枢に繋がるよう誘導した結果こんな姿になったのだ。わたしもアシスタントとして補佐すべく、黙示録のこの姿を借りている」
さっきから都合のいいことばかり言ってるけど、それってちゃんとジゼッラ本人の許可をとってるの?
「その点に関してはすまない。もっと軽い事態なのだと嘘をついて承諾をとってしまった。このナポリで他にトマト嫌いを探してる時間が無かった。髪が羊毛のように白いというのが黙示録のキリストの描写にぴったりで、名前もジーザスに似ているから適任だと……やめろやめろ、ルンバを投げるな。本当に時間がないんだ。ああほら、星が3つになってしまった。この星が7つになるとティッピングポイントを超えてしまいナポリ全体が噴火する。ネットワークとの接続でジゼッラの意識はぼんやりしているが味覚は正確に機能しているから問題ない。研究所の有り金をはたいて南イタリア全域からドローンで新鮮なトマトを運んでいる最中だ。わたしも手伝うから、それでとにかくジゼッラが気に入りそうなトマト料理をチャッチャッと作ってくれ!」
*
口だけは達者な仔羊に言いくるめられる形になってしまったが、ジゼッラを元の姿に戻すためには仕方がない。外の尋常じゃないパニックをよそ目に言われるがまま、中高と料理部だった己の総力をかけて、私は自信のあるトマト料理を片っぱしから作っていった。
『美味しんぼ』に出てきた卵とトマトの中華風炒め。
『クッキングパパ』のトマトチャーシュー。
『きのう何食べた?』の豆ごはんと鶏肉のトマト煮込み。
マンガ好きなジゼッラのためにナポリ料理の他にもマンガ飯を揃えてみたのだが、どれもジゼッラが気に入る様子はなかった。余った料理は責任をとって仔羊に全部食べてもらった。
アプローチの仕方が間違っているのか……?
だいたい嫌いな食べ物の克服なんてのは、もっと時間がかかるものなのだ。人類滅亡の危機なのはわかるが、嫌いなものを無理に食べさせるのはそもそも私のポリシーに反する。
それは相手が変な細菌たちであってもだ。
ジゼッラだけではなく、ネットワークが好むであろう料理はないものか。
寝不足の頭を抱えて思い悩んでいた私の脳内に、ふと浮かぶものがあった。
ストリートアートでよく見かけた、赤、緑、白、黒があざやかなパレスチナ国旗だ。
アラブ文化との繋がりが深いナポリでは、ナチス・ドイツの占領に抵抗した歴史もあり、数多くのアーティストがパレスチナとの団結を示しているのだ。
初めてつくる料理だが、上手くいくだろうか。
仔羊にホブズというアラブのパンを用意してもらってる間に、私はレシピをもとにカライェット・バンドラの製作に取り掛かった。
ヨルダン及びパレスチナで広く愛されているこのトマト煮込みを作ろうと思ったのは、ヨハネがパレスチナ出身だからだ。かつてヨハネがネットワークと接触したのなら、彼の意識情報の影響がまだ僅かながらでも残ってるかもしれない。
オクラとトマトのバーミヤ、トマトとたまねぎのトルキシサラダなど、パレスチナ料理にはトマトを使ったものがたくさんあるのだと高校の料理部で学んだ記憶がよみがえった。
トマトのヘタを全て取り、根元に包丁でバツ印を入れる。
それを軽く一、二分茹でたものをスプーンで皮をむき、それぞれ六等分に切る。
フライパンでオリーブオイルを熱し、みじん切りしたにんにく(まだ残っていた実家直送の鹿児島ジャンボにんにく)と青唐辛子を加える。きつね色になって香りがたってきたらトマトを加え、一〇分程度じっくり加熱し続ける。塩コショウで味を調整する。
これを大皿に移して、別で作った松の実とにんにくのスライスをオリーブオイルを炒めたソースを上から注ぐ。パセリをパラパラとかけて、ホブズを添えたら完成だ。
一番シンプルなレシピ通りに作ったし、味見したかぎり自分ではかなり美味しく出来てると思うのだが、実のところ完成度に自信はない。
仔羊が両刃の剣を咥えてジゼッラの口から引き剥がしてる間に、スプーンで出来たてを口元へ運ぶ。
太陽のように光輝く顔にぽっかり空いた暗がりへ、カライェット・バンドラは消えていった。
*
パトモス島の海岸から、アカハシカモメの群れを我々は見上げる。
島の外に陸地は無く、どこまでも黒い海と水平線が広がっている。
我々の名は滅亡だ。
三万年前に起こった滅亡の残響から生まれた、滅亡という名の観念だ。
人類すべてが滅亡した後にも世界が存続し続けるという人間たちの信仰が我々を生んだ。それを人間たちに信じさせたのは我々だが、そこから生まれたのも我々だった。
今になって思えば、我々があの赤い果菜を心底から恐れたのはその毒性のせいではなかった。あれが殺戮と病原菌が跋扈する、アメリカ大陸という本物の滅亡の世界からやって来たからだった。本物の滅亡のなかで滅亡という観念が存続するなど不可能だ。
そして今や人間たちは、滅亡から逃れるための副作用で生まれた滅亡を押し付けあって滅びようとしている。我々は傍迷惑な人間たちに手を引かれ表舞台にふたたび出てはみたものの、早くも隠遁生活を懐かしく思っていた。
ふと見ると、いつの間にか岩場の上にダイニングテーブルが出現し、大皿の上でトマト料理が湯気を立てていた。
何だかずっとこの日を待っていたような気がする。椅子に座りながら我々はそう思った。
あの男が同席した最後の晩餐というのは、こういうものなのか。
帝国の圧政に故郷を追われた老人と接触した、あの日を思い出す。
大皿から料理をスプーンで掬って香りを楽しんだ後、我々は口の中でグジュグジュとしたトマトの食感を味わった。
主な参考資料